日本は、欽明帝の御宇
、西暦五百五十年。 初めて、海の外からの、この新教に触れた。それまでは、天孫民族固有の、いと素朴な、天地の祀まつ
りしか思わなかった人びとも、人間自体のうちに、仏を観み
、日月の天象のほかに、因果の輪廻りんね
を知り、現世のほかに、未来を智恵する道を、訓おし
えられた。 降くだ って。 聖武帝、光明后の天平てんぴょう
勝宝しょうほう には、東大寺の建立やら、大仏開眼かいげん
などの、画期的な仏教興隆が、この国にも見られた。以来、大唐だいとう
大陸から輸入された経典、美術、音楽、文芸などをあわせて、やがて奈良、平安の両朝期から ── いま近衛帝の世にいたるまで、僅々きんきん
、五百十年。── そんな短い年月でしかなかったのに ── 教団は、もう爛熟らんじゅく
を過ぎて、腐りかけている。 無常むじょう
を、仏教は、つねに説くが、仏教そのものすら、無常の外のものではない。 釈迦しゃか
はすでに、予見して、末法まっぽう
の日のあることを、経典に予言したが、おそらくは、若き悉達太子の、平和なる人間界の顕現という理想は ── あまりにも短い期間に地上を通り過ぎてしまったのではあるまいか。 しかし、よし短くても、かつては、日本でも仏陀ぶつだ
の愛が、ほんとの光芒こうぼう
を放って、あまねく、貧富おたがいが、慈悲を心に、敬助しあって、和なご
やかに、世を持ちあった期間は確かにあったのである。 渡唐ととう
し、帰朝して、高野こうや を開いた空海
(弘法大師) 。 また、叡山に法燈をかかげた最澄さいちょう
(伝教大師) などは、その最盛期を、地に示した人びとだった。 けれど、それらの真実の高僧たちすら、たちまちにして、自己の点じた法燈の山と、法燈の山の間に、人間の災禍のうちでも、もっとも戦慄せんりつ
すべき武力闘争が、すでにはらまれていようとは、予測もしていなかったことにちがいない。 |