〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/12 (火)  輿こし り (三)  

(時忠と、郎党の平六とやらを、引き渡せ)
と、祗園側から、掛け合うことも、数度に及んだが、清盛は、いつもせせ笑って、てんで受け付けもしない。
刑部省へ、談じ込んでも、刑部きょう その者が、清盛の父忠盛である。らちはあかない。
で。── ついに、山門の名をもって、関白忠通ただみち へも、鳥羽院へも、直々じきじき に、抗議の使者をたて、清盛親子を糾弾きゅうだん し、幾たびとなく、交渉を重ねたが、言を左右に託し、まったく、わが山門を軽蔑している。
言語道断の沙汰さた 。われらの堪忍も、今は、やぶれた。
そもそも近来、朝廷でも、鳥羽院でも、わが叡山の地位が、いかなるものかを、忘れかけている。かりそめにも、わが北嶺ほくれい の大比叡小比叡は、皇城鬼門の鎮護として、また天皇本命の道場として、桓武かんむ 帝の勅を奉じ、開山伝教でんぎょう 大師が、山王二十一社の諸天に祈りをこめ、根本中堂こんぽんちゅうどう には、末代安穏の法燈を照らしおかれたものではないか。
それゆにこそ ──
ひとたび、大衆だいしゅ が、日吉ひえ 山王の神輿しんよほう じて、洛内らくない にはいるときは、天皇たりとも、おんみずから、庭上に下りて、これを遥拝ようはい して迎え遊ばすのが、古来からの例である。
天皇すでにしかり。── 公卿百官など、いうまでもない。
「さるを、なんぞや、不問に付しおく、一院の御態度も、関白家の対応も、けしからぬ。そもそも、古例を忘れ、われら北嶺の を、軽んずるものじゃ。一山の大衆よ。いかが、思わるるか」
事件の経過を、獅子吼ししく してきた廻廊の大法師は、こぶしを振るって、こう結んだところだった。
大講堂の前の大衆は、黒々くろぐろ と、表情の波を るぎたてた。──かれらは、興奮し、激発して、口々に、
下山げざん 、下山」 とさけび、
強訴ごうそ よ、強訴よ。── らしめたがいい」
と、沸くがごとく、わめいた。
わめくにも、すべて、覆面があるのに、鼻を手で隠して、声を変えて、いうのが、山法師の習性だった。

その日、ふたたび、下山鐘が、鳴り渡った。
山王二十一社の神人やちは、神輿をかついで、根本中堂の前に、奉安する。
神仏混淆しんぶつこんこう というよりは、 “本地垂迹ほんちすいじゃく ” というむずかしい理論から、神社はみな、仏教色の中に、織り込まれていた時代なのだ。
本尊薬師如来、日光月光二菩薩ぼさつ梵天ぼんてん帝釈たいしゃく 、十二神将の宝前で、大護摩ごま がたかれ、三綱さんごう僧座そうざ と、百僧の読経のうちに、強訴入洛じゅらく の式があげられ、宣誓書が、読まれる。げき が飛び、この附近 ── 毘沙門堂びしゃもんどう 、大師堂、戒壇院かいだんいん のあたりまで、武装した学侶がくりょ学生がくしょう 、堂衆たちなどの僧兵は、いよいよふえて、地という地をうずめつくした。
「ここ久しく、一院、朝廷へも、見参けんざん せぬ。おりには、神輿振りをお見舞い申しおかぬと、とかく、われらを、あな ずることにもなる。── このたびの曲事こそ、天の与えた機。あわせて、小ざかしき武者どものきも をも、取りひしいでおかねばならぬ」
と、衆徒は、はるかな都心へ、眼を放って、豪語しあった。
六月の烈日が、中天に燃えかがやくころ、神輿をかつぐ一群を真ん中に、満山のせみ しぐれを進軍の歌として、強訴をはかる一山の大衆は、山つなみのように、下山し出した。

※本地垂迹
仏・菩薩が衆生を救うため、その本心を仮に種々の姿に変えて現れること。わが国の神々も、インドの仏・菩薩が、仮に姿を現したものとおわれる。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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