〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻

2013/02/12 (火)  輿こし り (一)  

三塔十六谷に住む叡山えいざん の法師たちは、まだ勤行ごんぎょう にもつかない、未明の夢を、ふいに、 まされた。
「大講堂の鐘が鳴るぞうっ。・・・・大講堂にあつまれいっ・・・・」
たれかは知れぬが、どこかで、雲を呼ぶように、どなっている。
── ごうん、ごウうん、ごうウウん・・・・
鳴り止まない鐘の音を耳にしながら、法師たちは、下に、よろい を着こみ、上に法衣をまとい、太刀たち を帯び、薙刀なぎなた を持ち ── 老師の場合は、竹の入堂杖にゅうどうじょう をつき ── われ先にと、谷々から、雲のわくように、登って行く。
六月の半ば過ぎ、短夜みじかよ の空も、まだ暗く、星が、まばらである。
法師たちは、道々、あちこちの、堂舎や院に屋根を見るごとに、くち へ、手をかざして、
「大講堂に立ちまわられよ。鐘が鳴ったぞ。── 満山の大衆に、寄れと、告げているぞうっ」
と、呼ばわり、呼ばわり、行くのだった。
彼らは、老若ともに、裹頭かとう と称して、長絹や袈裟けさ で、覆面する奇妙な習慣を持っている。
わんらべ や、雑人ぞうにん たちは、直垂ひたたれそで で、顔を包む。
足もとは、山足駄あしだ か、草履を、ふつうには履いているが、大講堂の非常鐘ひじょうがね が鳴る場合は、衆議によって、ただちに下山するかも知れないので、皆、草鞋わらじ ばきで、
「何の僉議せんぎ か」
と、武者の出陣と同様に、集合の庭へ、急ぐのであった。
「ヤ、ヤ。・・・・人が死んでおるぞ」
四明ヶ嶽の谷道で、ひとりの堂衆が、草むらに、立ちどまった。
「おうっ、年寄りじゃないか。どこの老僧であろう」
岩に頭でも打ちつけたのか、死骸しがい は、血にまみれ、顔もさだかではないが ──のぞきあっていた法師の一人が、死骸の手首に懸けてある数珠じゅず を、とくと見て、
「あっ、西塔さいとう の常行堂に んでいた実鏡じっきょう 法印ほういん だ。実鏡御坊にちがいない」
「えっ・・・・あの碩学せきがく がか」
「そうだよ。よく見るがいい」
「ううむ。どうして、死んだのだろう。四明の上から、足でも踏みすべらしたものか」
「いやいや、長らく、中風ちゅうぶ をわずろうていたから、やまい を苦にして、みずから死を急いだのであろう」
「病苦ばかりでもあるまい。── たまたま、人に会えば、会う人ごとに、近ごろは、仏法の腐敗堕落を、ののしりやまず、よくしゃべっていたということだ」
「そういえば、座主ざす へあてて、弾劾書だんがいしょ を出したとか、聞いていたが」
「いつも、怏々おうおう として、笑ったことのないお人であった。年久しい中風にも気を腐らし、ついに、こうなったものだろう。いや、あわれあわれ」
「だが、集合の鐘は鳴るし、どうしたものか」
「遅かれ早かれ、死ぬ病人、いや、すでに死んでしまった亡骸なきがら などに、かまっていられる場合ではない、── 一山の僉議せんぎ のうえでは、即刻、大衆下山だいしゅうげざん となるやもはかり難い。とむら いごとなど、いつでもできる。僉議へ急げ。大講堂へ、ともあれ行け」
法師たちは、死骸を見捨てて、立ち去った。
つぎに、通りかかった、同じ服装の、同じ山法師の群も、横目に見たが、そのまま、 けて過ぎた。
次の群も。── また次の群も。
いつか、夜は明けかけて、老碩学ろうせきがく の顔のそばに、朝露をもった螢草ほたるぐさ が、微風に、揺れていた。
ぽかと、 いていた彼の口の中の一本歯が、今朝、初めて笑って、この山を ているように、見えた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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