〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-] 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
九 重 の 巻
2013/02/11 (月)
大
(
だい
)
比
(
ひ
)
叡
(
えい
)
(一)
“
法
(
のり
)
の
御山
(
みやま
)
” と、人々はそこを言う。
四季、朝に夕に、都の
辻
(
つじ
)
からも、遠くなく、近くもなく、
加茂
(
かも
)
の上流にながめられる
比叡
(
ひえい
)
の峰々は、ふと、ちまたの生活に疲れ果てたものの眼には、
「ああ、あの
御山
(
みやま
)
には、この
苦患
(
くげん
)
や、人間同士の
醜
(
みにく
)
さもあるまいに・・・・」
と、思われがちであった。
叡山
(
えいざん
)
もまた、人間の住む地上と、それは分かっていても、なお、そう思いたくないのである。
明けても暮れても、
咬
(
か
)
み合い
騙
(
だまし
)
し合い、
媚
(
こ
)
び合い、
陥
(
おと
)
し合い ── の
餓鬼道
(
がきどう
)
を、周囲に見ている以上に ── かなたなる、救いの世界までが、同じだとしたら、人間はいったい何を信じ、どこに安らぐのか。
「── いや。あそこだけには、
真実
(
しんじつ
)
の灯が、不断に
点
(
とも
)
っている」 と、
観
(
み
)
るだけでも、
衆生
(
しゅじょう
)
は、観ていたい。
そして、ちまたが、欲望の
修羅
(
しゅら
)
であるほど、どこかでは、
御仏
(
みほとけ
)
たちが、正しい者は、正しいと観、善なる者は、善と観てるもの ── と、信じたかった。
無知な願いかも知れないし、
憐
(
あわ
)
れむべき迷いかも知れないが、しかし、善良ではある大部分の衆生は、何かを、心に持ちたかった。持たずには、今を、生きていられない人びとであった。
まことに、あわれというほかはない。
無知、
素朴
(
そぼく
)
な人間だけに限ってはいない。人間は、人間である以上、無意識にも、何かにすがって、生きている。──いや、おれは依存を持たない。おれはおれだけで割り切って生きている。── という
唯物主義者
(
ゆいぶつしゅぎしゃ
)
も、唯物の信徒に他ならない者だし、唯物も
唯心
(
ゆいしん
)
も、愚として冷笑する
虚無
(
きょむ
)
主義者も、虚無という独信のうつろに、あぐらを組んでひとり
悦
(
えつ
)
に入っている
婆羅門
(
ばらもん
)
の行者と、どこか、似かよっている。
衆生は、理念には、悩まない。彼らはただ生きあえぐ本心の底から、ただこの世の 「美」 と 「信」 とを持ちたいだけのことだった。── 願いを、
仏陀
(
ぶつだ
)
にかけ、
懺悔
(
ざんげ
)
を、大自然の不思議に涙し、足を
伽藍塔
(
がらんどう
)
の
荘厳
(
しょうごん
)
に運んで、
「── 救わせ給え」
と、素朴に、掌をあわせて、祈るほか、助かる
工夫
(
くふう
)
を、知らないのである。
春は、うす紫に。── 秋は
金色
(
こんじき
)
に。
大比叡、小比叡の峰々は、そうした民衆のかなたにあった。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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