〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/11 (月) 女 院 と 西 行 (六)

その朝、正月十九日。── 西行は、東山を出て、四条の河原まで来たが、おりふし、雪が降って来たので、草庵へ戻ろうかと、思い惑った。けれども先夜、源五兵衛のもたらした消息なども思い出され、
「いやいや、余りに、ごぶさたにすぎてもいるし、世も、いつどう変るやら知れぬ時 ──」
と、淡雪の降りつむ橋を、ついに、渡って行った。── 待賢門院のうちの、局たちを訪おうと、思い立ってである。
そして、洛内の一つのつじ まで来ると、
流人るにん が、送られて行くぞよ、──夫婦の囚人めしうど が」
「夫婦しての、流され人とは、どこの、たれか。── 何をしての、流罪るざい であろうぞ」
雪ともいわない人だかりである。
西行は、別な方へ、曲がろうとしたが、そこも人や馬で、通れもしない。
検非違使けびいし の武者が、辻をかため、万一に備えている様子から見て、罪人は、家人けにん も持っている、しかるべき身分の者と、思われた。
「オオ、あの裸馬ぞよ。おいたわしや。・・・・日ごろ、おやさしい、み台所様だいどころさま も、散位様さんにさま も」
出入りのまち の女房たちでもあろうか、おろおろ声で、人々の間に、背伸びするもあり、おもて をおおうて、よよと、泣くのもある。
そのうちに、割り竹を持った六条の下司げす (下役人) た放免たちが、
退 け、退け、道を、退きおれ」
「退きおらぬか」
と、路地の口から往来の左右を、いわゆる “こわ らしき者” といわれる権柄けんぺい叱咤しった で、群集を、押しひらいた。
狼藉ろうぜき を極めたそこの屋敷門の内から、二頭の裸馬の背にくくし付けられた流人の夫妻がひき出された。前後には、追立おった ての武士、役人などが、ものものしく、護り固め、── ひとりの下司は、板に書いた罪文を、手に掲げて、先を、歩き出した。
罪文には、こう読まれた

散位サンニ 源ノ盛行ユキモリ 、並ニ、妻、津守ツノカミ 嶋子シマコ ヲ、
土佐ノ国ヘ、配流ニ処ス。
待賢門院ノ仰セヲ奉ジ、国母皇后ノ宮 (美福門院)
咒詛ジユソ シ奉ル罪ニ依ルナリ
             太政官執行
盛行も、妻の嶋子も、もう白髪しらが の多い老人であり、夫婦して、女院のもと に、長く仕えていた家職の者であった。
西行も、前から、二人をよく知っていたので、変わり果てた夫妻の姿に、思わず、声を発して、悲しんだ。── とたんに、道の両側からわらわらと、裸馬のしばへと、 け寄って行く者が見えたので、西行も、われを忘れて、その人びととともに、
散位さんに どの。・・・・盛行もりゆき どのっ・・・・。お名残惜しいことではある。おからだを、大事に召されよ」
と、叫びながら、なにか、歌反古ほご の一つでも、餞別はなむ けしたいものと、つい、馬について、数十歩、あるいた。
すると、割り竹を持った “こわ らしき人びと” が、たちまち、それを振りかぶって、駆け寄りざま、
「この、凡下ぼんげ めら、また寄るか」
と、撲りまわった。
西行は、そんな者の竹に、たやすく打たれるような者ではなかったが、意外な出来事の驚きと、多少、気持に乱れもあったせいか、雪にすべって、騎馬役人のひづめの先に、あっと、よろめいたまま、あと のことを、知らなかった。
・・・・ふと、気がついた時は、身は、路傍の雪泥の中に つ伏しており、あたりには、人も馬も見えなかった。ただ、降りつのるぼたん雪が、夜半のように静かに、また、たった今、通り過ぎたすべてのかたち のものを、夢かのように、かき消していた。
その日、西行は、むろん、待賢門院の局を わなかった。
咒詛じゅそ は、うそだといい、いや、ほんとだといい ── また、あれはあなる一派の人びとの策謀にちがいないなどと ── それからの、まこと しやかな流言蜚語りゅうげんひご は、人の心をくら くするばかりだった。表面は依然たる平安の都だが、底流の不安は、ひと通りではない。
一時は、世上も、どうなるかとさえ思われた。── だが、何事もなく ── 鳥羽上皇の御落飾ごらくしょく の儀がつたえられた。爾今じこん 、法皇ということになられたのである。すると、翌月、二月二十六日には、待賢門院の仁和寺入りが、つづいて、沙汰さた された。── 仁和寺の法金剛院の奥深くこもられて、まもなく、出家されたのである。
まだ、四十二のおぐし は、黒く、つや やかであった。得度とくど のおん剃刀かみそり に会われる時、いかに、悲しまれるかと思いのほか、女院は、水のように冷ややかに、世俗を終わる式をすまされた。──お胸のうちのほむら のほどは・・・・などと言っていた人びとも、その日のお姿を見ては、みな恥ずかしくなったほどである ── などと、後に、局からの便りに知って、西行は、人の世の春と、自然の春とを、小鳥の の中で、ひとりながめくらべていた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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