聞説
。 武者盛遠の文覚は ── 人間の子の必然に、与えられた煩悩ぼんのう「
と苦悩を、那智の滝に、洗い去ろうとするものらしい。そして、まったく、別な自己を、滝つぼの底から、生み直して出ようとするもののように思われる。 (それは尊い追究だ。彼の選んだ道も、誤りではない。だが、自分の道とは、まったくちがう。同じ、人間の悩みから、出離を志したものではあるが・・・・やはり盛遠の道は、盛遠の道、自分の道は、自分だけの、ひとりの道・・・・) 西行は、人間のままに、人間の旅を。──
果てなく、人間のぼろとあわれを引きずって、ただ、生命いのち
のみを、愛そうと思う。 生命をよく持たんには、素直な、自然の子となるに如し
くはない。家は、闘争のちまたにある。妻子の家も捨てなければそれに徹てつ
しえない。 といって、自分の出家は、自分のためであって、世のためなどの大願ではない。いわんや、法燈の殿堂にはいって、大釈迦だいしゃか
牟尼むに の寵ちょう
をとなえ、金襴きんらん の僧位を望むのではもとよりない。 ただ、この一命の、いとしさに、人間はいかに生くべきやを、自然に習まな
び、自然を友に、天命のままに生を楽しもうと思うのみの出家である。 もし、世の理屈好きな法師どもがあって。── 借問しゃもん
す、出家の道は、世を浄きよ め、人を救うのにこそあるなれ、なんじ、ただ一身のための、世過ぎと、わがままをなさんがゆえに、法衣を仮か
るは、似而えせ 出離しゅつり
ならずや、言語道断の偽にせ 坊主よ。──と誹そし
る者があれば、西行は、甘んじて、その唾つば
をもうけるであろう。そして、なお責められるなら、ついにはこういう一語をもって、それに答えるしかないのである。 (── まことに、仏の教えと、僧侶そうりょ
の道とは、仰っしゃるとおりにちがいありません。・・・・けれど、まず、自分の生命すら、ほんとに、愛することを知らない者が、どうして、他の衆しゅう
の生命を、愛する事が出来ましょう。── ですから、わたくしはまず、自分の生命を、愛する事から、修行してゆこうとする青道心あおどうしん
にすぎませぬ。衆生を助けるなどの仏知も、神異の才も、わたくしには、持ちあわせておりません。── ですから、世間のお邪さまた
げにならないように、ほそぼそ、生かしていただいております。蝶ちょう
か、小鳥でも、いるものとして、どうか、眼にお怒りを含まないで、お見のがしおきくださいませ ──) |