〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/10 (日) 女 院 と 西 行 (四)

「盛遠のうわさを、お聞き及びでは、ございませぬか」
源五兵衛は、また、唐突に、こんな話しを、持ち出した。
西行は、灰の白さと、真っ赤な火の、映じ合う美しさに、うっとりしていたが、面をあげて、
「盛遠とは」 ── と、遠い過去の人みたいに、問い返した。
去年こぞ の暮れ、大赦たいしゃ の令に、追捕の罪名からは、解かれましたが、五年前、袈裟けさ を殺して、行方をくらました武者盛遠のことです。 ── 近ごろ、紀州の熊野から来た男に聞いたのですが、彼も、今は仏門に入り、法名を、文覚もんがく とかいって、去年こぞ の秋、熊野権現に、百日荒行あらぎょう の誓願を立てて、毎日、那智なち の滝つぼで、滝に打たれていたとか、申すことですが」
「・・・・ああ、あの盛遠か。・・・・なるほど、彼の性根を打ち直すには、滝なら那智。道ならば、自力難行の門。それしかあるまいな」
「わたくしに話したその男も、文覚とは、どんな荒法師やらんと、滝つぼの辺へ行ってみたところ ── 荒縄あらなわ の腹帯を巻き、れい を振り鳴らし、しぶきの中に、声も出ぬまで、経文きょうもんとな えている姿は、身の毛もよだつばかりであったとか、語っておりました。── 聞けば、幾たびか、気を失うて、おぼれ流されるところをば、那智の滝守たきもり に、救われたこともあったとやら。── 何せい、髪もヒゲも、面をうず むばかり伸び、眼は、くぼみ落ちてしまい、この世の者とも見えず、身を寒うしたということでございます」
「ほ。・・・・そうか」
西行は、燃えさしのほだ を持って、炉の灰に、何やら書いているだけだった。
文覚の、それほどな悔悟かいご と、捨て身に対して、さすがに、彼を武者のつら よごしと、ひところは、ののしっていた源五兵衛も、いまでは、同情的な口うらに、変っている。
だが、西行は、そうでもない。盛遠のとった道と、その正直さは、理解出来るけれど。こうして、春寒はるざむ の夜を、炉にすわって、ホタホタよ燃える静かな火に、あたたかな若い肉体を、おだやかに、つつがなく、生命の自然そのままに持っていようとすることの方が ── 那智の巌下がんか に千尺の飛瀑ひばく をこらえているよりは、どんなに、苦しいか、むずかしいか。── それが、わからない源五兵衛では、自分の道づれとして、生涯をともにするのも、心もとないことではあると、ひそかに、思ってでもいるらしい容子ようす であった。
この、東山の草庵に、起居してからも、夜半、ふと眼がさめる癖がついたのは、家を出る日、取りすがる幼子おさなご を、縁の上から蹴落けおと とした ── あの一せつなの泣き声に ── いつも呼び まされるためである。
「ひとり水をくみ、薪を割り、ふと、歌の一つも詠み出ようとすれば、谷のこずえも、双林寺の松も、あとに残してきた若い妻が、なげ く声にも似ていて、蕭々しょうしょう とふき渡る風が、にわかに耳について寝られなくなるのである。
さらに、縁につながる、幾多の生木なまき を、みずから裂いて来たとが として、自分の心も、のべつ、引き裂かれずには かれない。
この悩みと、この哀れとは、生涯、離れうることはないであろう。だが、哀れをこそ、わが生涯の道づれにと、西行は、じっと、抱きしめている。まぎ らそうの、忘れようなどとは、していない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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