〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/06 (水) 出 離 (二)

「どうしてだろう。何か、仔細しさい があったのか」
清盛は、人々に いてみた。義清が出家の動機というのが、彼には、どうしても、のみ込めないのだ。
義清の従兄いとこ に、すこし年上の、憲康のりやす という者がある。
前の日、鳥羽院から一緒に帰り、途々みちみち 、浮世の無常を語り合い、明朝、また憲康を誘い合わせる約束をして別れたとか。
そこで、康清は、約束通り、翌朝、大宮の従兄の家へ、誘いに寄ったものだという。すると、夕べの道づれは、病の発作で、一夜のうちに死んでいた。やしきの奥からは、若い妻や、老母や、子ども等の泣きすする声がもれていた。── 茫然ぼうぜん と、門辺かどべ に立ったままな義清に ── そのとき、奥の泣き声は ── 彼をして、ともに泣き悲しむことをさせなかった。反対に、人間の中では、毎日毎日、必然な約束事として繰り返される平凡な一事象に過ぎぬものを、自分のすぐそばにも今、当然に起こっているにすぎない。── そてをそんなふうに、静に る心を、はっと、自覚させられたと言うのである。
義清は、その日、その足で、真っ直ぐに、鳥羽院へ来て、致仕ちし の旨を奏し、友輩ともばら に、別れも言わず、家へ帰ってしまった。
突然なので、院中の誰もかれも、何が、不平で、何で めたのか、彼の心を、知るに苦しんだ。
(彼は、武者だが、生得しょうとく の歌人ぞ)
とは、上皇のお言葉でもあったほど、覚えもよかったし、院の障子絵に、経信、基俊、俊頼まどの歌人と供に、一日十首を詠んで、彼も、御感ぎょかん にあずかった時など、院のおん手ずから、朝日丸という太刀をいただいた名誉すらもっている。
なお、最近にも、左兵衛尉さひょうえのじょう に昇官されているし、さらに将来は、彼をして、検非違使にも任じたい上の意向であるとも言われているおりなのに ── と、人びとはみな、解けない顔をした。
家に帰った義清は、さすがに少し興奮はしていた。彼の若い妻は、一室のうちで、慟哭どうこく した。召使たちも、何事かと、きき耳をたてていた。
すると、やがて、しいて平静を努めながら、義清は、その部屋から出て来た。── と、四つになる可愛らしい盛りの彼のむすめ が、走り出て来て、父の袂にすがった。義清は、こわい顔して、その幼い者の手を、いきなり振り切り、縁から庭先へ、突き落とした。わっと、いたいけない叫びは、大地の怒りみたいに、父を恨んで、泣き続けた。
── これが、平然と、聞かれるのでなければ、道心の門出は、いつわりであると、自己へいい聞かせつつ、彼は、小刀を抜いて、自分の髻を切った。それを、持仏堂へ、、投げ入れるやいな、家じゅうの悲嘆と、号泣のあらしを後に、どこへともなく、走り去ってしまった ── というのが、総合された、人びとの風聞だった。
それから、十数日は、経った。
すると、佐藤義清は、もう法衣姿となって、名も、西行さいぎょう と称している。そして東山の双林寺附近にいたり、ときには、奥嵯峨のあたりを、歩いているのを、見た人もあるといううわさも聞こえた。

惜しむとて 惜しまれるべき この身かな  身をすててこそ 身をも助けめ
「若いのに、こんな歌すら詠んだことのある義清だ。昨日や今日の決意ではあるまい。── 遁世とんせい ではなく、むしろ、一歩高く、強く、生きようとしての、出家であろう」
この説明は、清盛の不審に対して、しゅうと の時信が、彼に答えたものである。
清盛には、いよいよ分からなかった。いちど、父忠盛にも、ただ してみよう。── そう思いつつ、彼は、いつのまにか、忘れてしまった。彼の前には、彼の前から消去った幾つかの友の顔よりは、もっとたくま しい夢をそそる時代の形相ぎょうそう と、大きな現実の足どりとが、やがて、つぎつぎに、起こっていた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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