それは、まだしも。 白河が璋子を愛し給うことは、度に過ぎていて、、鳥羽の中宮に立たれた後も、璋子は、法皇の宮へ自由に出入りされていた。
(古事談ニ拠 レバ)
── 留宿りゆうしゆく 累日るいじつ
、法皇と並び臥ふ し給い、その間かん
、近臣といえども奏するを得ざりし ── というような御行跡であったという。 あまつさえ、やがて、皇子が生あ
げられるや、ただちに冊さく して皇太子に立て、そのわずかに四歳の幼児をもって、白河は、鳥羽天皇の御意志をまげて、その御位を譲るように強し
い給うた。その幼帝が、いまの崇徳である。 それでも、鳥羽は、祖父白河の御在位中は、毫ごう
も、御無念を色にあらわさなかった。 待賢門院とのおん仲も、平凡に過ごされて来た。けれど、大治四年、法皇崩御の後は、一変された。すべての万機を院中に決し、天皇崇徳をさして、お戯れにも
── あれは、わが子ではない、祖父児おじご
よ ── と仰っしゃたり、また待賢門院に対しても、今は、一顧こ
の御車を回めぐ らしたこともない。 それも、むごい。余りに、冷たい。──
おりには、上皇御自身も、かえりみて、みずから問うことも、おありに違いない。 けれど、上皇のお胸は、またひとりこうもつぶやく。 (まだ何も知らぬ青春の芽ばえのむかし。白河と璋子とが、われに与えたあの氷刃ひょうじん
の思い、夜よ も日ひ
もあらぬ、嫉ねた き劫火ごうか
の苦しみにくらべれば・・・・。これほどな報むく
いは、なんでもない) かつて、白河が璋子を愛したごとく、いまは、上皇の寵ちょう
は、美福門院の上にある。 鳥羽離宮の翠帳すいちょう
ふかき処ところ 、春風しゅんぷう
桃李とうり 花ひらく夜か、秋雨しゅうう
梧桐ごとう の葉落つるの時か
──ただ一個の男性としての上皇が、頬ほお
をぬらして語り給う少年の日の思い出を ── 美福門院も、おん涙をともにして、聞かれることがあるであろう。 まことに、上皇の半生も、人間的には、御不運なものであった。幼少、万乗の帝位につき、十五、不幸な御結婚を強いられ、二十歳はたち
のころには、また他によって、退位させられ、法皇のあるうちは、発言も持たない蔭のお人として来られたのである。若き日からの、仏教への御誓願ごせいがん
も、うなずかれる。── そして今や、政権威令も、おん手にあつめて、こうあることは、その善悪、凡非凡は、ともかく、上下貴賎きせん
、人間自然の情じょう と痴ち
は、変わりのないものと観み るほかはない。 ひるがえって、忠盛にとれば。 忠盛もまた、白河法皇から、宿の妻せよと、祗園女御ぎおんのにょご
を賜ったことが、いかに、因いん
をなして、青春を無残なものにしてしまったか。以後の長い、暗鬱あんうつ
な十数年の家庭の悩みとなったことか。 上皇が 「・・・・そちも」 といわれた 「も」 は実に、この同難同禍の臣に対する、おいたわりであり、また、生涯癒えぬ御鬱憤ごうっぷん
を、ふと、もらされたものに、ちがいなかった。
忠盛は、まもなく、後妻のちづま
をむかえた。 いうまでもなく、一ノ宮の乳人めのと
、有子ありこ であり、有子の実家、大夫宗兼の許には、そのときもう、三人の幼子おさなご
が、あずけてあった。 清盛にとっては、異母弟になる四男家盛、五男頼盛、六男忠重である。 七男の忠度ただのり
が生まれたのは、なお後のことであり、母も違う。 なお、ついでに言えば、有子は、まえの祗園女御とは、まったく性格の違った母性型の人であり、忠盛にとって、大きな幸福を加えた良妻であった。──良妻であり、賢母であったがゆえに、後、清盛にとっては、義母ではあっても、父忠盛の亡な
いのちまで、なかなかこの人には窮屈で、頭のあがらない母堂であった。 晩年、池ノ禅尼といわれ、薄命の一少年源頼朝が六波羅ろくはら
に捕われた時、そのいじらしさを見、清盛を説いて、少年頼朝のために命乞いをした尼は ── 若き日、人もあろうにと人のいう、スガ目の忠盛と恋をした、この有子なのであった。 |