〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/05 (火) 長 恨 宮 (二)

それは、まだしも。
白河が璋子を愛し給うことは、度に過ぎていて、、鳥羽の中宮に立たれた後も、璋子は、法皇の宮へ自由に出入りされていた。 (古事談ニ レバ) ── 留宿りゆうしゆく 累日るいじつ 、法皇と並び し給い、そのかん 、近臣といえども奏するを得ざりし ── というような御行跡であったという。
あまつさえ、やがて、皇子が げられるや、ただちにさく して皇太子に立て、そのわずかに四歳の幼児をもって、白河は、鳥羽天皇の御意志をまげて、その御位を譲るように い給うた。その幼帝が、いまの崇徳である。
それでも、鳥羽は、祖父白河の御在位中は、ごう も、御無念を色にあらわさなかった。
待賢門院とのおん仲も、平凡に過ごされて来た。けれど、大治四年、法皇崩御の後は、一変された。すべての万機を院中に決し、天皇崇徳をさして、お戯れにも ── あれは、わが子ではない、祖父児おじご よ ── と仰っしゃたり、また待賢門院に対しても、今は、一 の御車をめぐ らしたこともない。
それも、むごい。余りに、冷たい。── おりには、上皇御自身も、かえりみて、みずから問うことも、おありに違いない。
けれど、上皇のお胸は、またひとりこうもつぶやく。
(まだ何も知らぬ青春の芽ばえのむかし。白河と璋子とが、われに与えたあの氷刃ひょうじん の思い、 もあらぬ、ねた劫火ごうか の苦しみにくらべれば・・・・。これほどなむく いは、なんでもない)
かつて、白河が璋子を愛したごとく、いまは、上皇のちょう は、美福門院の上にある。
鳥羽離宮の翠帳すいちょう ふかきところ春風しゅんぷう 桃李とうり 花ひらく夜か、秋雨しゅうう 梧桐ごとう の葉落つるの時か ──ただ一個の男性としての上皇が、ほお をぬらして語り給う少年の日の思い出を ── 美福門院も、おん涙をともにして、聞かれることがあるであろう。
まことに、上皇の半生も、人間的には、御不運なものであった。幼少、万乗の帝位につき、十五、不幸な御結婚を強いられ、二十歳はたち のころには、また他によって、退位させられ、法皇のあるうちは、発言も持たない蔭のお人として来られたのである。若き日からの、仏教への御誓願ごせいがん も、うなずかれる。── そして今や、政権威令も、おん手にあつめて、こうあることは、その善悪、凡非凡は、ともかく、上下貴賎きせん 、人間自然のじょう は、変わりのないものと るほかはない。
ひるがえって、忠盛にとれば。
忠盛もまた、白河法皇から、宿の妻せよと、祗園女御ぎおんのにょご を賜ったことが、いかに、いん をなして、青春を無残なものにしてしまったか。以後の長い、暗鬱あんうつ な十数年の家庭の悩みとなったことか。
上皇が 「・・・・そちも」 といわれた 「も」 は実に、この同難同禍の臣に対する、おいたわりであり、また、生涯癒えぬ御鬱憤ごうっぷん を、ふと、もらされたものに、ちがいなかった。

忠盛は、まもなく、後妻のちづま をむかえた。
いうまでもなく、一ノ宮の乳人めのと有子ありこ であり、有子の実家、大夫宗兼の許には、そのときもう、三人の幼子おさなご が、あずけてあった。
清盛にとっては、異母弟になる四男家盛、五男頼盛、六男忠重である。
七男の忠度ただのり が生まれたのは、なお後のことであり、母も違う。
なお、ついでに言えば、有子は、まえの祗園女御とは、まったく性格の違った母性型の人であり、忠盛にとって、大きな幸福を加えた良妻であった。──良妻であり、賢母であったがゆえに、後、清盛にとっては、義母ではあっても、父忠盛の いのちまで、なかなかこの人には窮屈で、頭のあがらない母堂であった。
晩年、池ノ禅尼といわれ、薄命の一少年源頼朝が六波羅ろくはら に捕われた時、そのいじらしさを見、清盛を説いて、少年頼朝のために命乞いをした尼は ── 若き日、人もあろうにと人のいう、スガ目の忠盛と恋をした、この有子なのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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