〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/05 (火)  めの の 恋 (三)

わずか、ここ両三年の間だけでも、何か大きな社会事変というと、そのほとんどが、宮門の火災と、武力を持つ僧団の暴威であった。──重なものだけを、年表から拾ってみても。

二月九日 興福寺ボ僧徒七千余人、春日神木カスガシンボク ヲ奉ジテ、強訴ガウソ ニ入洛。三日ニワタリ洛内、騒動ス。(保延三年)
二月二十三日 賀茂社ノ神館、神宮寺ノ西塔ナド、焼失ス。
二月二十四日二条東ノ洞院ノ内裏、炎上。
四月二十九日円城寺ノ僧徒、別当禅仁房ヲ焼打シテ、闘争長キニワタル。
十一月二十四日 土御門ノ仮皇居、炎上。 (以上、保延四年)
翌年。三月九日興福寺ノ僧徒、別当隆覚房ヲ焼ク。
    十一月九日興福寺ノ僧徒、フタタビ別当隆覚ト闘フ。
    十二月二日検非違使尉、源ノ為義ヲ奈良ニ派して、隆覚ノ党与ヲ、捕ヘシム (以上、五年)
翌年。正月二十三日  石清水イハシミズ ノ宮ニ大火アリ、宝器悉ク焼亡。
    五月五日大山、香椎カシヒ筥崎ハコザキ ノ僧徒神人等、大宰府ダザイフ ノ民家数千ヲ焼ク。
    五月二十五日延暦寺ノ僧徒、円城寺ヲ焼ク。

これに類する小事件や、各地の群盗沙汰ざた などは、およそ想像がつこう。人心の不安は、なお、いうまでもない。
僧団は、戦っている。禁門や摂関家の門へ、強訴に押しかけるばかりでなく、僧団同士でも戦っている。惜しみもなく、堂塔や僧房を、焼き討ちしあっている。
けれど、焼けるそばから、鳥羽三層塔の建立も成就じょうじゅ し、勝光明院や成勝寺は建てられ、天皇の臨幸、上皇の御幸など、そのつど、宝財は散華さんげ とまかれて、今を、末法などと疑うものはいない。──まさに、仏教の繁昌は、南、菩提樹林ぼだいじゅりん の熱帯の国から、大唐だいとう 大陸を経て、いまや四季の国、歌の国のここ日本の地に移り咲いて、爛漫たる浄土天国が顕現されてるようにさえ── 眼には、見えもするのであった。
かつは、皇室にも、御慶事が多かった。
皇太子重仁が、お生まれになった。
お若い崇徳帝びは、はやくも、父となられたのである。
ところが、帝の父、鳥羽上皇もまた、寵姫ちょうき 藤原得子とくこ (美福門院) とのあいだに、皇子体仁なりひと の誕生をみられた。
上皇の御意志で、皇太子重仁は、親王におかれ、体仁新王をたてて、皇太子とされた。
当然、崇徳のお心は、安らかでない。
もっと、複雑で、おつらいのは、待賢門院 (藤原璋子) の皇太后としての、お立場だった。
こうした宮中の動きも微妙。社会情勢も多事。総じて、世上はなんとなく、騒がしいものがあったので、鳥羽上皇は一、二度ならず、今出川の忠盛の許へ、ひそかなお使いを立てられた、
「出仕せよ。顔を見せよ」 と、促された。
忠盛が、再度、院庭に仕え始めたのは、孫の重盛が生まれたその年であった。翌年には、官位も五位の刑部少輔ぎょうぶのしょうゆう げられ、子息清盛にも、昇官の内旨があるなど、久しい貧乏平氏にも、このところ、吉事が続いた。
すべて、上皇の御意志に出ていることは、いうまでもない。
公卿たちも、今度は、沈黙しているかにみえた。── しかしそれは、陰性な用意の空間であったとみえる。やがて彼らは、忠盛の私行を、裏面からあばきたてて、意外な事実を、表面化しだした。
それは、忠盛の恋であった。忠盛に、かくし妻があったという、耳新しい取沙汰とりざた である。
と、いっても、公卿たち自身、夜々に通う愛人や、かくし妻は、みな持っている。ひとり忠盛のみに、恋をとがめる筋合いはない。
だが、問題は、恋にではなく、相手方の女性にあるというのだ。公卿たちの見るところ、ゆゆしいひがごとであり、かならずや上皇の逆鱗げきりん にふれ ──ひいては忠盛の死命をやく するであろうとして ── 俄然がぜん 、院中にうわさを立てた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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