これに類する小事件や、各地の群盗沙汰
などは、およそ想像がつこう。人心の不安は、なお、いうまでもない。 僧団は、戦っている。禁門や摂関家の門へ、強訴に押しかけるばかりでなく、僧団同士でも戦っている。惜しみもなく、堂塔や僧房を、焼き討ちしあっている。 けれど、焼けるそばから、鳥羽三層塔の建立も成就じょうじゅ
し、勝光明院や成勝寺は建てられ、天皇の臨幸、上皇の御幸など、そのつど、宝財は散華さんげ
とまかれて、今を、末法などと疑うものはいない。──まさに、仏教の繁昌は、南、菩提樹林ぼだいじゅりん
の熱帯の国から、大唐だいとう
大陸を経て、いまや四季の国、歌の国のここ日本の地に移り咲いて、爛漫たる浄土天国が顕現されてるようにさえ── 眼には、見えもするのであった。 かつは、皇室にも、御慶事が多かった。 皇太子重仁が、お生まれになった。 お若い崇徳帝びは、はやくも、父となられたのである。 ところが、帝の父、鳥羽上皇もまた、寵姫ちょうき
藤原得子とくこ (美福門院)
とのあいだに、皇子体仁なりひと
の誕生をみられた。 上皇の御意志で、皇太子重仁は、親王におかれ、体仁新王をたてて、皇太子とされた。 当然、崇徳のお心は、安らかでない。 もっと、複雑で、おつらいのは、待賢門院
(藤原璋子) の皇太后としての、お立場だった。 こうした宮中の動きも微妙。社会情勢も多事。総じて、世上はなんとなく、騒がしいものがあったので、鳥羽上皇は一、二度ならず、今出川の忠盛の許へ、ひそかなお使いを立てられた、 「出仕せよ。顔を見せよ」
と、促された。 忠盛が、再度、院庭に仕え始めたのは、孫の重盛が生まれたその年であった。翌年には、官位も五位の刑部少輔ぎょうぶのしょうゆう
に挙あ げられ、子息清盛にも、昇官の内旨があるなど、久しい貧乏平氏にも、このところ、吉事が続いた。 すべて、上皇の御意志に出ていることは、いうまでもない。 公卿たちも、今度は、沈黙しているかにみえた。──
しかしそれは、陰性な用意の空間であったとみえる。やがて彼らは、忠盛の私行を、裏面からあばきたてて、意外な事実を、表面化しだした。 それは、忠盛の恋であった。忠盛に、かくし妻があったという、耳新しい取沙汰とりざた
である。 と、いっても、公卿たち自身、夜々に通う愛人や、かくし妻は、みな持っている。ひとり忠盛のみに、恋をとがめる筋合いはない。 だが、問題は、恋にではなく、相手方の女性にあるというのだ。公卿たちの見るところ、ゆゆしいひがごとであり、かならずや上皇の逆鱗げきりん
にふれ ──ひいては忠盛の死命を扼やく
するであろうとして ── 俄然がぜん
、院中にうわさを立てた。 |