〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/04 (月)  めの の 恋 (一)

結婚したすぐ翌年。──保延四年には、時子はもう妊娠みごも っていた。見てもわかる体をしていた。
妻に異状を訴えられた時、清盛は、率直によろこべもしない、まごついたような顔色を見せた。なぜか、たった一ぺん六条裏の遊女あそび と寝たことなどが、いやな回顧の陰影になって、突然、二十一歳で父を宣告された男の ── 自責をひと り脅かされた。
「・・・・おうれしくは、ないんですの?」
「それは、うれしいさ。けれど、わが家は武門だから、男の子ならよいがなあ」
言わなければ、妻へ、悪いような気持で、清盛は、あわてて言った。

── 後宮こうきゅう佳麗かれい 、三千人
三千の寵愛ちょうあい 、一身にあり
金屋きんおく 、粧ひ成って、けう として夜に
玉楼。宴やんで、酔うて春に和す
姉妹弟兄ていけい 、みな に列す
あは れむべし光彩、門戸に生ず
ついひ天下、父母の心をして
男を産むをおも んぜず
女を産むを重んぜしむ
白楽天はくらくてん が、玄宗皇帝げんそうこうてい楊貴妃ようきひ との情事を歌った長恨歌ちょうごんか の一節は、そのままわが平安朝の貴族心理をいっているようなおもむき がある。
藤原氏の間では、女子が生まれて、やがてその女子が天質の美玉ならば、天皇上皇のきさき女御にょご ともなり、一族、三公の栄位にならび、臣にして皇室の外舅がいきゅう ともあがめられることはままあるなら いなので、妊娠みごも った夫人が産屋うぶや にはいれば、藤氏とうし の氏神たる春日の社へ使いをたてて、妖気ににもまさる美人を産ましめたまえと、祈る者が多いとか。
──清盛も、話には聞いているが、彼にそんな祈りはないし、もっと一義的な、愛情すらも、持とうとしても、わいて来ない。
やがて、冬になって、
── それは十一月の大雪の降り積もっていたある朝のこと。彼女のふかく垂れ込めていた産屋の几帳きちょう の蔭から呱々の声があがった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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