その日。──
義清は、無二の朗従、源五兵衛李正
という者に、歌の詠草えいそう
を持たせて、待賢門院たいけんもんいん
の女房たちの局つぼね へ、使いにやっていたのである。 待賢門院は、天皇崇徳の御母、藤原璋子。つまり鳥羽上皇の皇后である。 が、天皇崇徳とのおん仲も、つねづね冷やかな上皇は、その皇后にも、遠のかれており、べつに中納言長実のむすめ、藤原得子とくこ
(美福門院) をいれて、かたときも、離し給わぬほどな愛し方であった。 もちろん、今度の御幸にも、伴われて、離宮のうちに、上皇の寵ちょう
を、身ひとつにうけて居られるのである。 義清は、扈従こじゆう
して、きのうきょう、ここの万華まんげ
のにぎわいを見るにつけ、待賢門院の、今は人の訪う人まれな冬庭の ── わびしい女房たちを、思い出さずにはいられなかった。 そこには、歌の上で、かねがね親しい女房たちも多い。 で、歌に寄せて、ここの便りを、源五兵衛に持たせてやったものである。 その帰り途みち
か。行きがけの間違いか。 何にしても、義清は、矢のように、六条堀川へ心が急いでいた。──清盛たちへは、ああ言ったものの、彼とて、相手の何者なるかは、わきまえている。 ことには、源五兵衛という郎党は、彼にとって、またなき忠実者であり、身に代えても、助け出さねばと、思っている。──
自分が、六条へ駆けつけるまで、どうか、源五兵衛の身に、あやまちのないようにと、祈るような気持で、馬を早めていた。 堀川者といえば、途検非違使尉けびいしのじょう
の手先のこと。坂東者といえば、源氏武者の代名詞のようになっている。 けれど、六条判官為義なる人に会ってみると、恐こわ
がられているうわさとは、まるでちがう。 いまでこそ、不遇な武族の家長に過ぎないが、八幡太郎義家の孫、人がらはよく、品位もあり、話しもわかる。年は、このとき四十一であった。 「・・・・いや、よく分かりました。さっそく、調べさせましょう。さもなくてさえ、院の武者所と、こっちの武者どもは、つねに、にらにおうているなどと、世評もうるさいおり、もし、仔細しさい
なくして、お召使を、投獄したとあれば、捨ておきがたい曲事です。──おういっ、義朝」 為義は、廊をへだてた内庭の向うの部屋へ、大声で、そう叫んだ。そこは、長男義朝の部屋とみえる。 時は、深夜に近く、夜雨はあがって、ここ判官屋敷の屋根と、六条獄門の不気味な建物の上に、あやなしの冬の月が、薄雲のうちに明滅していた。──
おりふし、判官為義は、もう寝室に入りかけていたが、門をたたく音、その客と言い争う番士の声などに、みずから起きて来た。── そして佐藤義清と、内庭に面した板じきの室で対面した。火の気もなく、ただ一火か
の松あかりを灯皿ひざら にくべて、客の来意を、聴いたのであった。 やがて、嫡子の義朝は、客と父の影から遠く、板縁いたえん
に、かしこまって、 「──御用は」 と、手をつかえた。 よい息子 ── と、義清は見ていた。 |