〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/04 (月) 歌 使 い (一)

義清の姿は、見当たらない。武者部むしやべ の囲いのどこにも見えない。── そこで、これはかならず、徳大寺卿の供囲いにいると、たれか気づいていった者がある。
なぜならば、義清は、父の左衛門尉さえもんのじょう 康清やすきよ の代から、徳大寺家とは、主従の関係があって、今でも、内大臣実能さねよし からは、家人扶持けにんぶち をうけていた。
大臣家や、顕官の家人けにん でありながら、院の北面にも籍があるのは、二十奉公のようだが、もともと武者所の編成は、個々の、出身別からみると、純一ではなく、混成である。
二院政治の初めにあたって、時局の不安と、山門勢力に備えるため、朝廷の兵部にかわるものとして、新たに組織された時から、その大部分の員数は、地方武士の ── 源氏系、平氏系の野性を召集したにはちがいないが、昔からの衛府えふ の武人や、諸家の随身ずいしんうち からも、あわせて、採用した者が少なくない。
源ノ渡と、花山院の左大臣源ノ有仁との関係が、そうであったし、佐藤義清もやはり、徳大寺内大臣の家人であって、また、鳥羽院北面の でもあった。
── で、、いま、心当たりをつけた者が、そこを き合わせてみると、果たして、義清は、徳大寺実能に呼ばれて、今宵の歌合せの末席にいることがわかった。
万葉の昔から、和歌の道には、貴賎きせん のへだてはない。一布衣ほい にすぎない義清だが、文学に心ある者として、かつは、主家すじの徳大寺実能のひきたてもあって、院の歌合せにも、仁和寺にんなじ の法親王の御会ぎょかい にも、義清はよく席に連なる栄に浴していた。
おりふし、彼は、家僕の凶変を聞いても、にわかに、立ちかねる用事でもしていたのであろうか。── 一方では、清盛達の同僚が、
「まだ来ぬが。どうしたのだろう?」
「たしかに、義清の耳へ、はいったのだろうか。まさか、おく して、自身の郎党を、見殺しにするつもりでもあるまいに」
「もう一度、知らせてやってはどうか」
などと、酒の味もそぞろに、案じぬいていたのだった。── 他人でさえ、こう心配しているのに、当の義清が、何たる遅滞ぞと、少々、怒り気味な者すらあった。
人びとが、こう、躍起に思うのも、決して、いわれのないことではない。
天皇、上皇などの、洛外の行幸にあたって、いつも羅生門を警護するのは、警察、司法の任をもつ、検非違使の役ときまっている。ここにも、庁の長官たる 「別当」 の下に、次官として 「すけ 」 がおかれ、その下に 「左衛門」 「右衛門」 「じよう 」 の三階級がある。いちばん下の三等官 「尉」 のことを、べつに 「判官」 とも、呼ぶのである
こんどの御幸に、洛内洛外の境界である羅生門を固めていた手勢は、その判官 ── 検非違使尉、源ノ為義だったことは、たれも知っていた。
彼の部下には、奥州歴戦の老兵士だの、坂東ばんどう そだちの荒武者が多い。子の義朝、頼賢よりかた 、頼仲などの名も、市人におそれられている。
それに、もっとも、いやなことには、職掌ながら、配下に 「放免放免ほうめん 」 だの 「はし下部しもべ 」 などという、ふだ つきの雑人ぞうにん を、手あしに使っていることだ。
放免という名称は、かって罪人だった者を、逆に、探索役にとりたてて、人間の罪を ぎまわらせたところから起こったもので、まち の中では、ヘイライさんは愛称だが、ホウメンというと、だれもが、ふるえあがる。
拷問ごうもん や、たた きは、かれらの、朝飯まえの仕事で、死に至らしめた例はめずらしくない。そのため、六条堀川の判官屋敷では、毎年、結縁供養けちえんくよう が、行事となっているほどだった。
「どういう間違いか、わからぬが、あの為義の手にかかっては、なま やさしいことでは返すまいぞ。・・・・はて、何をしているのか、佐藤義清は」
ひとごとは、やはりひとごとである。待ちあぐね、いいあぐねて、中にはもう眠たげに、居眠るもあり、酒に飽いて、みな、気抜けしていたころだった。
佐藤義清は、ようやくここに、姿を見せて、
「や、おのおの、ご心配をわずらわしたが、これから行って見てまいる。── 夜明けまでには、立ち返るつもりですが、おそくも、還御のお時刻までには戻って、必ず、供奉ぐぶ には加わりますゆえ、余り、お騒ぎくだされぬように」
と、外から言った。
見れば、馬をひき、狩衣かりぎぬ すがたで、供といえば、ただ一人の小童こわらべ に、松明たいまつ を持たせているだけだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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