〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/02 (土) 染 め 糸 の 記 (四)

「あぶない。・・・・ほら、また水たまりだよ」
時忠時忠 は、松明たいまつ を、清盛の足もとにさしのべた。のべつ、注意を与えながら、大藪道おおやぶみち の夜を歩いて行く。
清盛は、酔った。ほんとに酔っている。
── 大丈夫、お送りなどは御無用と、かたく辞したが、時信もあやぶむし、第一、姉姫の時子がきかなかったのである。
(弟よ、時忠よ。お客人まろうど を、西七条のなわて のあたりまで、お送りしておあげなさい)
清盛が、そこを辞して帰るころには、この姉姫も、どうしてどうして、そう、露おもたげな深窓しんそう の花の風情ふぜい だけではなかった。笑いもするし、はきはきと答えもする。気のせいか、自分を見る眼もえん にちがう。
──だが十九だ。清盛は、妙に、年にこだわった。何だか、姉みたいな気がするのである。瑠璃子るりこ の印象に重なるせいかも知れないと思う。しかし明朝、父忠盛の前でする答えはちゃんとはら にきめていた。
時子の器量や性質は、八点ぐらいとしても、彼が、満点を与えて、愉快に思ったのは、姉妹の間の ── 今年十六という弟の時忠 ── あの小冠者であった。
「おいっ、獅子丸ししまる 」 と、わざと呼んだ。おもしろ半分に、松明を振り動かしてばかりいた小冠者は、清盛の濁音だくおん をはね返して、間髪かんぱつ に、答えた。
「なんだ。ヘイライ」
「おや、おれは、布衣ほい だぞ。ヘイライとはちがう。狩衣かりぎぬ をみい」
「ヘイライに、毛のはえたのが、ホイだろう。なんだ、ホイ小父」
「おまえは、すれているな。街で、とり 合わせばかりやっているんだろう」
「小父さんだって、 けたろ。同罪じゃねえか。うちのおやじ、何か、きいたかい」
「はははは、おれの卵みたいな奴が、ここにも一匹いやがった。おもしろいぞ、なんじは」
「何の卵だって」
かえる の卵だよ」
「それじゃあ、お玉杓子たまじゃくし じゃないか。獅子丸を抱いてきて、突っつかせるぞ」
「あやまる、あやまる。おい、手を出せ ── 。ここは西七条の畷、おまえと、手を握っておこう。生涯のまじ わりの誓いに」
北山あたりから冬を持ってくる風が、昼見たあわれな家々へ、無慈悲な木の葉をぶつけてゆく ──。清盛の影もよれよれに吹かれながら遠のいて行った。あとの畷のやみには、いつまでも、小さいほのお を振っているのが見える。
たれが思い得たろう。後年、六波羅の平家一門中、権謀むしろ入道清盛をこえて、世に “?紳しんしんきょう ” と怖れられたへい 大納言時忠こそ、実に、良家の一不良 ── この日のお玉杓子であろうとは。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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