〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/02 (土) 染 め 糸 の 記 (二)

なぜか、単なる文使ふみづか いにすぎない自分に、やがて酒が出され、ぜん が出たのを見て、清盛は、いよいよこれは、ただごとならずと、予感をもった。
ずぼらで、あら いくせに、一面には、竪琴たてごといと が微風に鳴るような神経が彼にはある。いわんや。父忠盛にあるこのごろの気持や、こうして、めん と向かい合っている時信の心ぐらい、読みきれない彼ではない。
(ははあ・・・・) と、解けて、解けない容子ようす もしていられる彼だった。ずるさではなく持ち前の大まかな顔の徳なのだ。そこで、円座いっぱいに座りなおして、ひけ目は禁物きんもつ 、大いに飲んで、充分、こっちの人間も見せ、彼女の美か否かも、禁物はら をすえて見るべきだと、ひそかに思う。
姉なる姫は、おりおり、席に姿を見せては、また、気を持たせるように、引っ込んで行き。また、いつの間にか、父のそばに、はべ っていた。美人とはいえないが、一人前ではある。しも ぶくれで、肌理きめ 白く、ありがたいことには、おやじほどには、鼻もとが り過ぎていない。
でも、親の時信には、秘蔵のむすめには、ちがいなく。
「さきほど、泉殿で、見かけられたであろうが、これが姉の姫じゃ、時子というてな。・・・・え? 妹かの。滋子しげこ の方は、まだ、まことに、幼うてな。呼ばせても、ここへ来おるまい。まあまあ呼ばいでもよい」
時信は、こう、引き合わせたが、心なしか、微酔の もとに、老いの影を、ただよわせた。
姫たちの母は、すでに世に い人だともいう。男手おとこで に子供を育てる苦労は、忠盛どのもお分かりだが ── とも、述懐する。
酔うほどに、おも男親は、自分が、世と妥協の出来ない性格の為に、むすめたちにも、ほとんど、処女おとめ の楽しみらしい思いは何もさせずに来た ── ということを、笑い泣きみたいに語るのであった。そして、座にはべ る時子の姿へ、親の眼を、ちらと、無意識に向けては、また言った。
「十九でおざるよ。・・・・もうすぐ二十歳はたち ともなるのに、客人まろうど のまえでは、よう、ものも いわぬ方でなあ」
十九か。と清盛はちょっと、がっかりした。時代の常識では、おそいといえる年だからである。が、こう売れ残っているゆえんは、時信の述懐のとおり、罪、男親にあって、姫の容貌ようぼう に帰すべきではあるまい。
(いや、わが家の父忠盛にも、多少、責任の一半がないともいえぬぞ)
それについて清盛は、近ごろもまた籠居ろうきょ している父の苦衷を考えた ── 禍因は、いつも、きまっている。例の “昇殿問題” が起こりなのだ。
問題は、すでに過去でも、 “いつかは除くべき人物” として、忠盛の名が、院の公卿たちの排他主義の底流に監視されていたことは、変わりがない。── それが今度の盛遠追捕の場合にも、新しい火種を見つけていぶり出したというだけに過ぎないのだ。
が、清盛は痛感する。あらためて、考えてみる必要にも迫られている。
── なぜといえば、昇殿問題の裏面には、ここにいる時信も、裏面に関係があった人だということを、ごく最近、父忠盛から、あらためて、打ち明けられていたからである。
時信も、そうだとすれば、わざわ いは、姫の時子にも滋子しげこ にも、かたちをかえて、因果しているものといえよう。── 清盛には、自分の い立ちにかえりみて、充分に、うなずける。
──思えば、ばかな話しだ。奇怪きわまる曲事ひがごと だ。ついに、父忠盛の生涯は、そんなものに、葬り去られてしまうのか。一体、昇殿問題とは、どういうことなのか、真の禍因は、何なのか。
彼のつねに持つ懐疑でもある。
以下、余り旧事に属するが、略述しておくのも、無駄ではあるまい。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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