〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/02 (土) 染 め 糸 の 記 (一)

水薬師の池からわく清水しみず は、土塀どべい をくぐって、屋敷うち を流れていた。布を投げたような曲線が、釣殿つりどの床下ゆかした をとおり抜け、せんかんたる小川の末は、東の対ノ屋の庭先から、さらに木立こだち をぬい、竹林ちくりん の根を洗って、邸高ヨ落ちて行く。
むかしは、別荘ででもあったものか、自然の風致に申し分ない。しかし釣殿といえ、寝殿といえ、こうも ち古びているやかた は、洛外らくがい でもめずらしい。ただ、さすがに庭面にわも は、あるじ のゆとりというものか、この自然をよく生かし、掃除もとどいて清洒せいしゃ である。
「・・・・おや。だれかいるな」
ヘイライひとり出た来なかったが、ふと、泉殿いずみどの のほとりを見ると、姉妹とも見える二人の女性が、 をからげ、そで もむすんで、白いはぎ もあらわに、流れで何かすす いでいた。
「あ。・・・・ここの姫かしら。そうらしいぞ」
清盛はにわかに、今日の使いが、楽しまれた。
姉妹とすれば、姉なる人と妹との、間の者が、さっきの小冠者にちがいない。── 妹はまだうない髪の童女である。姉の方は、さて、幾歳いくつ かしら。
「ははあ。糸を染めておいでなさるのだ。染桶そめおけ があるし、勾欄こうらん から紅葉もみじ の木へ、すす ぎあげた五色の糸を、かけつらねて、干してもある。・・・・はて、何とおと なおう。驚かしてもよくないし」
だが、彼が言葉もかけないうちに、幼い姫が、彼を見つけた。姉に何か告げている様子である、と思ううち、急に二人とも、対ノ屋の方へ、走りこんでしまった。
あとには、水禽みずとり だけが、あそ んでいた。清盛は、腹が立たなかった。むしろ、よいいとまをもらったように、流れで、手などを洗い、曲がっている烏帽子えぼし を、真っ直ぐに、正したりした。
「よう。・・・・平太どのでおわそうが。何しておられる。さ、上がられい、上がられい」
渡殿わたどのろう から、こう聞き覚えのある時信の声である。客として、わが では、何度も迎えたことのある人。清盛は、いんぎんに、礼をした。
通された室は、調度ちょうど とて、ろくにないが、清潔ではある。
すすめられた円座えんざ にすわって、清盛は、父からの手紙をわたした。──が、時信は、
「ア、そう・・・・。ご苦労だったの。・・・・和殿は、初めてだったかな? この家には」
などと対話につとめて、手紙のうちの用向きなどは、さきに分かっているような顔つきだった。
いろんな世間話を向けられる。清盛は観学院の寮試りょうし (試験) へ出たときのようにかしこまった。時信が、学者はだ なせいかも知れない。いや、もう少しその心理は複雑だった。幼い下の姫は、ともあれ、姉の方は、彼にとって、問題である。親の時信の、不精ひげだの、いやに高い鼻だのを、あまり好まないものにながめながら、胸におうちでは、もう人知れず、空想の奏楽がしきりだった。

※うない髪
髫髪と書き、うないとよむ。 「うな」 は 「項」 の意か。子供の髪の毛を首のあたりに垂らしているさま。またその髪。幼い子供、うないこまどともいう。
※寮試
平安時代の学制で、大学の学生がくしょう から擬文章生ぎもんじょうしょう になるための、大学寮の試験。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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