〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/02 (土) とり じゃ (三)

「伊勢どのの小殿ことの 。伊勢どのの小殿。── どこへ行かれる」
「あ。・・・・これは、僧正でしたか」
空とぼけて、歩き出したのに、清盛は、呼び止められて、大いにてれた。
しかし、覚猷かくゆう は、今どきの若い者に、赤い顔をさせるようには、言わなかった。
「おもしろかったのう。わしも、小冠者の鶏の方が勝つと思うとったが・・・・やはり、勝ったナ。若鶏の方が」
清盛は、ほっとした。── そこで、図にのって、言ったものである。
「僧正は、お賭けになりませんでしたか」
「あはははは、わしは、下手へた でな」
「でも、お考えが たっていたではございませんか」
「いや、何でも、鶏目利とりめきき のように見たわけではない。鶏師の鶏は、わしのような鶏。小冠者の鶏は、和殿のような若鶏。・・・・喧嘩けんか すれば、知れていることであろ。── だが、和殿は、せっかく勝った賭け物を、だいぶ、胴元ろやらいう男にゆすられたようだの」
「僧正がわたくしに損をさせました。僧正が見ていらっしゃらなければ、喧嘩してやるところだった」
「いけない、いけない。あとの喧嘩は、和殿の負けじゃろ。あの男たちは、鶏師の同類だよ。わからんかな。・・・・いや、あまり分からぬもよし。とこに、父伊勢どのはまた、院の出仕もひかえ、籠居ろうきょ と聞くが、お元気か」
「はい、元気でおります。ことを好まぬ父なので」
「お気持は、わかる。鳥羽の画僧が、お体を大切にせよと申したと、ことづけて給われ」
「ありがとう存じます」 ── 別れかけたが、ふと。
「物をおたずねいたしますが、この辺に、穀倉院こくそういん案主あんず 時信ときのぶ さまのお住居があるものでしょうか」
「お・・・・。さき兵部権大夫ひょうぶのごんたいふ 時信ときのぶ どのかな?・・・・おこと 、知らぬか」 と、僧正はまた、供の舎人とねり に聞く。
供の男は、知っていた。
この七条畷しちじょうなわて を行くと、あの西に、延喜えんぎ 年間のやしろ という水薬師みずやくし がある。やぶ をへだてた境内の隣がすぐそれである。平氏のつる につながるお人の不遇と貧乏はいうまでもないが、兵部仕えには不向きな学者はだ で、穀倉院でも変人と評判のあるほどだから、そのお屋敷とて、想像のほかであるやも知れない。── などと、舎人の教え方は、つぶさだった。
「はははは、それでは、和殿の父の伊勢どのと、まず、似たような人と申せばよい。長袖ながそで のうちにも、忠盛風ただもりふう の者もあるとみゆるよ。・・・・おお、小殿、忠盛どのに、こうもいうておいて欲しいぞ。栂尾とがのお の山も、そろぞ寒うなったので、わしも、鳥羽の庵にうつり、冬じゅうは、 など描いて、こも してあるほどに、まれには、遊びにわたられいとな。・・・・」
言い残して、覚猷かくゆう は、道をべつに、分かれて行った。
それから、間もない後。── 清盛の姿は、水薬師の大藪道おおやぶみち を通って、一軒 ── よいうよりは一かく と言った方が正しいほどの長い土塀どべい の前に立っていた。
「なるほど、これはひどいもん だ。わが家の方が、まだ貧乏も小ぢんまりしている。・・・・これでも、中に、人が住んでいるのかしら」
たたけば、こわれそうな門の である。いや、たたく必要もなく、二尺ほど、 がって、すいていた。しかし礼として、清盛は外からおと なうことにした。たの もう、頼もう ── を二度ほどくり返す。── と、内に足音がして、ガタ、ガタンと、厄介やっかい な門の を、持ち上げ気味に開けながら、ひょいと、顔を出した少年がある。
「おや・・・・?」 と、小冠者は、眼をまろくした。
「やあ、さきほどは」
意外であった。しかし奇遇は、親しみを急速にするはずである。清盛は笑いかけた。ところが、小冠者は、彼をおいたまま、妙にあわてて、どこかへ隠れこんでしまった。

※案主
庵主とも書き、あんしゅ、あんじゅ とも読む。仏道修行のために造られた庵室の主の僧。また特に、尼寺の主である尼僧の呼び名。茶の湯では草庵の茶室の主人のこと。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next