「伊勢どのの小殿
。伊勢どのの小殿。── どこへ行かれる」 「あ。・・・・これは、僧正でしたか」 空とぼけて、歩き出したのに、清盛は、呼び止められて、大いにてれた。 しかし、覚猷かくゆう
は、今どきの若い者に、赤い顔をさせるようには、言わなかった。 「おもしろかったのう。わしも、小冠者の鶏の方が勝つと思うとったが・・・・やはり、勝ったナ。若鶏の方が」 清盛は、ほっとした。──
そこで、図にのって、言ったものである。 「僧正は、お賭けになりませんでしたか」 「あはははは、わしは、下手へた
でな」 「でも、お考えが中あ
たっていたではございませんか」 「いや、何でも、鶏目利とりめきき
のように見たわけではない。鶏師の鶏は、わしのような鶏。小冠者の鶏は、和殿のような若鶏。・・・・喧嘩けんか
すれば、知れていることであろ。── だが、和殿は、せっかく勝った賭け物を、だいぶ、胴元ろやらいう男にゆすられたようだの」 「僧正がわたくしに損をさせました。僧正が見ていらっしゃらなければ、喧嘩してやるところだった」 「いけない、いけない。あとの喧嘩は、和殿の負けじゃろ。あの男たちは、鶏師の同類だよ。わからんかな。・・・・いや、あまり分からぬもよし。とこに、父伊勢どのはまた、院の出仕もひかえ、籠居ろうきょ
と聞くが、お元気か」 「はい、元気でおります。ことを好まぬ父なので」 「お気持は、わかる。鳥羽の画僧が、お体を大切にせよと申したと、ことづけて給われ」 「ありがとう存じます」
── 別れかけたが、ふと。 「物をおたずねいたしますが、この辺に、穀倉院こくそういん
の案主あんず 時信ときのぶ
さまのお住居があるものでしょうか」 「お・・・・。前さき
の兵部権大夫ひょうぶのごんたいふ
時信ときのぶ どのかな?・・・・お汝こと
、知らぬか」 と、僧正はまた、供の舎人とねり
に聞く。 供の男は、知っていた。 この七条畷しちじょうなわて
を行くと、あの西に、延喜えんぎ
年間の社やしろ という水薬師みずやくし
がある。藪やぶ をへだてた境内の隣がすぐそれである。平氏の蔓つる
につながるお人の不遇と貧乏はいうまでもないが、兵部仕えには不向きな学者肌はだ
で、穀倉院でも変人と評判のあるほどだから、そのお屋敷とて、想像のほかであるやも知れない。── などと、舎人の教え方は、つぶさだった。 「はははは、それでは、和殿の父の伊勢どのと、まず、似たような人と申せばよい。長袖ながそで
のうちにも、忠盛風ただもりふう
の者もあるとみゆるよ。・・・・おお、小殿、忠盛どのに、こうもいうておいて欲しいぞ。栂尾とがのお
の山も、そろぞ寒うなったので、わしも、鳥羽の庵にうつり、冬じゅうは、戯ざ
れ絵え など描いて、籠こも
り居い してあるほどに、まれには、遊びにわたられいとな。・・・・」 言い残して、覚猷かくゆう
は、道をべつに、分かれて行った。 それから、間もない後。── 清盛の姿は、水薬師の大藪道おおやぶみち
を通って、一軒 ── よいうよりは一郭かく
と言った方が正しいほどの長い土塀どべい
の前に立っていた。 「なるほど、これはひどい破や
れ門もん だ。わが家の方が、まだ貧乏も小ぢんまりしている。・・・・これでも、中に、人が住んでいるのかしら」 たたけば、こわれそうな門の扉と
である。いや、たたく必要もなく、二尺ほど、曲ま
がって、すいていた。しかし礼として、清盛は外から訪おと
なうことにした。頼たの もう、頼もう
── を二度ほどくり返す。── と、内に足音がして、ガタ、ガタンと、厄介やっかい
な門の扉と を、持ち上げ気味に開けながら、ひょいと、顔を出した少年がある。 「おや・・・・?」
と、小冠者は、眼をまろくした。 「やあ、さきほどは」 意外であった。しかし奇遇は、親しみを急速にするはずである。清盛は笑いかけた。ところが、小冠者は、彼をおいたまま、妙にあわてて、どこかへ隠れこんでしまった。
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