〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/30 (水) とり じゃ (一)

黄菊白菊は、この都では、道ばたの、ただの雑草でしかない。
霜がおり、もずの声が耳につき、その菊叢きくむら も枯れそめると、都もどこか、荒涼とながめられた。
「・・・・はてな、こんな場末に、朝臣あそん の家などがあるかしら。どっちへ出ても、雑人町ぞうにんまち のあばら家ばかりだが」
十月のある日。小春びより。
清盛は、父忠盛の手紙をもって、丹波口、西七条のあたりを、うろついていた。
父の言葉によれば、
時信ときのぶ どのは、穀倉院こくそういん に勤めておられるから、そこへお訪ねしたほうがよい)
と、簡単だったので、穀倉院へ行ったところ、そこの史生ししょう が言うには、
(お見えになっていましたが、何か、先例を調べることがあるとかで、大学寮へ行かれたようです。大学寮の書庫へ行ってごらんなさい)
とのことだった。
勧学院も大学寮も、またその穀倉院も、みな壬生みぶ の一地域なので、遠くはない。しかし、宛名あてな の人は、そこにもいなかった。
(たぶん、もうお帰りでしょう。このごろは、公務もおひまのようですから)
御自宅は、西七条というのも、書庫の史生に聞いてきたことなのである。──が、歩いてみると、それらしい屋敷も見えず、ここらあたりの、道の悪さや、 ごとの不潔さといったらない。
唐朝とうちょう うつしの、官庁楼門や、純大和様式の皇居、離宮、公卿館くげやかた のある地区などとは、ひとまず、幾世紀の風化と、人文じんぶん の調和のもとに、この国の平安京をつくりあげてはいたが、くま なく歩いてみると、市坊しぼう の裏や場末には、今なお、あちこちに、穴居けっきょ の民からいくらも進んでいない貧しい部落と未開土みかいど を、まだらにかか えていることがわかる。
下駄げた づく りの家、鍛冶師かじし の小屋、紙すきの家族、かわ をなめす人たち。── 染屋は、手首に自分の色を持ったこともなく、かせいでいる。
年ごとの秋の出水でみず に、この界隈かいわい は、やたら池や小川が出来、かせぐ親たちから目のかたきにされている子の餓鬼がき たちが、しぎ にわなをかけたり、釣をしているかと見れば、疫痢えきり の病人を家に持つ女が、病人の汚物おぶつ を捨てるにかっこうな場所ともして、ふな稚魚ちぎょ だけは、よく肥えていた。
「・・・・さて、たずねてみるしかありまいて」
清盛は、立ち止まった場所の附近を見まわした。── よ、人垣ひとがき をなして、何か、わいわい騒いでいる群れがある。ケケケケコッ・・・・と軍鶏しゃも のするどい鳴き声もする。
「ア。やってるな。鶏合とりあ わせだ」
清盛も、いつか、その人の輪に、一つの顔を加えていた。
そばの家は、鶏師とりし の宿であろう。かみさんや、老婆や子たまで、縁先へ出て、見物しているのだ。そして、往来の者を、立会人として、こわ らしい顔つきをした鶏師とその弟子は、秘蔵の鶏かごをうしろにひかえ、挑戦に来たひとりの小冠者と、勝負の け物を、公約している様子なのである。
ぜに でこい。ささいな賭け物では、とり を傷つけるだけでも、わりにあわねえ。銭なら、闘ってやるぜ。小冠者、銭を持ってきたか」
と、鶏師は言う。
「あい。銭でもいいよ」
小冠者は、十四、五歳でもあろうか、とはいえ、小がらに似げないふてぶてしさを、かか えている一羽の軍鶏のまな ざしとともに示して、すでに、相手の大人を、なめてかかっている笑靨えくぼ である。
「いくら・・・・いくら ける? おじさん」
「よし。これだけこい」
鶏師は、小笊こざる の中の銭を、何枚も数えた。小冠者も出して、一しょにおいた。

※史生
律令制で、太政官や八省など諸官司におかれた下級の書記官。文書の書写や修理、雑用に使われた。しせい、しじょう ともいう。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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