黄菊白菊は、この都では、道ばたの、ただの雑草でしかない。 霜がおり、もずの声が耳につき、その菊叢
も枯れそめると、都もどこか、荒涼とながめられた。 「・・・・はてな、こんな場末に、朝臣あそん
の家などがあるかしら。どっちへ出ても、雑人町ぞうにんまち
のあばら家ばかりだが」 十月のある日。小春びより。 清盛は、父忠盛の手紙をもって、丹波口、西七条のあたりを、うろついていた。 父の言葉によれば、 (時信ときのぶ
どのは、穀倉院こくそういん に勤めておられるから、そこへお訪ねしたほうがよい) と、簡単だったので、穀倉院へ行ったところ、そこの史生ししょう
が言うには、 (お見えになっていましたが、何か、先例を調べることがあるとかで、大学寮へ行かれたようです。大学寮の書庫へ行ってごらんなさい) とのことだった。 勧学院も大学寮も、またその穀倉院も、みな壬生みぶ
の一地域なので、遠くはない。しかし、宛名あてな
の人は、そこにもいなかった。 (たぶん、もうお帰りでしょう。このごろは、公務もおひまのようですから) 御自宅は、西七条というのも、書庫の史生に聞いてきたことなのである。──が、歩いてみると、それらしい屋敷も見えず、ここらあたりの、道の悪さや、戸こ
ごとの不潔さといったらない。 唐朝とうちょう
うつしの、官庁楼門や、純大和様式の皇居、離宮、公卿館くげやかた
のある地区などとは、ひとまず、幾世紀の風化と、人文じんぶん
の調和のもとに、この国の平安京をつくりあげてはいたが、隈くま
なく歩いてみると、市坊しぼう
の裏や場末には、今なお、あちこちに、穴居けっきょ
の民からいくらも進んでいない貧しい部落と未開土みかいど
を、まだらに抱かか えていることがわかる。 下駄げた
作づく りの家、鍛冶師かじし
の小屋、紙すきの家族、革かわ
をなめす人たち。── 染屋は、手首に自分の色を持ったこともなく、かせいでいる。 年ごとの秋の出水でみず
に、この界隈かいわい は、やたら池や小川が出来、かせぐ親たちから目のかたきにされている子の餓鬼がき
たちが、鴫しぎ にわなをかけたり、釣をしているかと見れば、疫痢えきり
の病人を家に持つ女が、病人の汚物おぶつ
を捨てるにかっこうな場所ともして、鮒ふな
の稚魚ちぎょ だけは、よく肥えていた。
「・・・・さて、たずねてみるしかありまいて」 清盛は、立ち止まった場所の附近を見まわした。── よ、人垣ひとがき
をなして、何か、わいわい騒いでいる群れがある。ケケケケコッ・・・・と軍鶏しゃも
のするどい鳴き声もする。 「ア。やってるな。鶏合とりあ
わせだ」 清盛も、いつか、その人の輪に、一つの顔を加えていた。 そばの家は、鶏師とりし
の宿であろう。かみさんや、老婆や子たまで、縁先へ出て、見物しているのだ。そして、往来の者を、立会人として、恐こわ
らしい顔つきをした鶏師とその弟子は、秘蔵の鶏かごをうしろにひかえ、挑戦に来たひとりの小冠者と、勝負の賭か
け物を、公約している様子なのである。 「銭ぜに
でこい。ささいな賭け物では、鶏とり
を傷つけるだけでも、わりにあわねえ。銭なら、闘ってやるぜ。小冠者、銭を持ってきたか」 と、鶏師は言う。 「あい。銭でもいいよ」 小冠者は、十四、五歳でもあろうか、とはいえ、小がらに似げないふてぶてしさを、抱かか
えている一羽の軍鶏の眼まな ざしとともに示して、すでに、相手の大人を、なめてかかっている笑靨えくぼ
である。 「いくら・・・・いくら賭か
ける? おじさん」 「よし。これだけこい」 鶏師は、小笊こざる
の中の銭を、何枚も数えた。小冠者も出して、一しょにおいた。 |