草庵
というよりは、簡素な山荘という方がふさわしい。 鳴滝の上流と、清滝きよたき
の水とが交叉こうさ している渓流橋たにがわばし
をわたって、高雄道たかおみち
八丁への途中、栂尾とがのお の山のふところに、覚猷かくゆう
僧正は、ときどき来ている。 鳥羽に住んだり、栂尾へ来たりしていたが、世間では。鳥羽僧正で通っている。叡山えいざん
の天台座主てんだいざす もやり、三井寺にもいたという僧歴はあるが、いまどきの法師は、大薙刀おおなぎなた
を振ったり、火攻め夜討ちにも、勇敢でなければならない。僧正は、人に言っている。 「わしには、とても、喧嘩けんか
はでけん。生まれ変わってでも来ぬことには、坊主になる資格はないでの」 そこで、山荘には、坊主を置かない。青侍あおざむらい
一名と、小舎人ことねり 三人ほど、召し使っていた。 「俗のお暮らしやら、法師のお住居やら、とんと、分かりませんなあ」 人が、怪しめば、僧正は、澄まして言う。 「イヤ。わしの下僕しもべ
ではないよ。京の邸の者が来て泊っておるのじゃろ」 要するに、僧正の生活は、方便ほうべん
に従っているものだろう。また、親ゆずりの横着者とも言えなくはない。 僧正の親は、僧正自身がもう七十すぎの老人であるから、断ことわ
るまでもなく、世には居ない人だが、宇治の亜相あしょう
と人びとから愛称され、皇后宮大夫をも勤めていた宇治大納言隆国たかくに
であった。 隆国は、関白頼通よりみち
の門を、馬で乗り通ったというほどだから、公卿に似合わない面つら
がまえの男であったらしい。が、多病で ── などと言い立てて、早くに、堂上仕えをやめ、夏は、頼通の別荘、宇治の平等院びょうどういん
へ間借りして、避暑がてら、 「今昔物語こんじゃくものがたり
」 の著作などやっていた。小机の前に、葛布くずぬの
の単衣ひとえ をはだけて、へそもあらわに座り込み、往来の旅人や、界隈かいわい
の雑人ぞうにん たちをつかまえては、 (何か、話せ。めずらしいことはないか。なんぞ語れ) と、耳ぶくろへ入れては、ひとりの童わっぱ
に、大団扇おおうちわ で汗をあおがせながら、筆を執っていたという。まことに、いかしな風格をもっていた人物であった。 僧正は、その隆国の何番目かの子かしれないが、とにかく、食べるに困る人ではなく、法衣は着ても、坊主は、ふるふるきらいで、好きなのは、絵であった。絵ばかり描いて楽しんでいた。 その絵も、古今を通じて、類のない絵であった。長く鳥羽に居たので、世人はそれを鳥羽絵とばえ
と呼んだ。 さきの白河上皇の前でも、召されて、描いたことがある。図は、たくさんな米俵が、大風で宙に吹っ飛んでいるのを、大童子おおどうじ
や小役人が、アレヨアレヨと、騒いでいる狂態である。 (ははあ、おもしろげではあるが、なんの、意味であろう?) 公卿たちが、いぶかり問うと、僧正は、 (近ごろ、供米くまい
のお取立てが、余にも、きつ過ぎるとて、下々しもじも
では、俵のうちに、いろいろな思案でも詰め込んで、供出するしかないというておる。・・・・今に、俵も風に飛ぶほど、軽くなるであろうと思うて) と、答えて、退さ
がったという話もある。 また、南都、叡山などの荒法師の行状やら、公卿堂上たちの奢おご
りやら、後宮の迷信だの、官職の争奪だの、およそ社会愚や人間悪の目につく弊へい
をことごとく漫画にした鳥獣戯画という幾巻かの絵巻を描いて隠し持っておられるのを、乞こ
うて、見せてもらったという人もある。 人間を獣に擬ぎ
して、狐きつね と兎の競馬だの、狸僧正たぬきおしょう
の祈祷きとう だの、また衣冠した蛙かえる
同士の喧嘩けんか やら、示威運動やら、化ば
かし合いやら、見方によっては、おそろしく現世を憤いきどお
っているのか、あいそをつかし果てたか、どっちかの、風刺ふうし
である。 ところで。──きょうも僧正は、何か、世間への悪態を絵筆にいわせて描いていたが、途中、客があって、反古ほご
も硯すずり も、そっち退の
けになっていた。 客は、僧正から見ると、孫ほども年の違う、院の北面の侍、佐藤義清であった。 |