その夜も、妖
しい夢の疲れと、慟哭どうこう
に明けたある朝 ── 未明のころである。 蹌踉そうろう
と、所も知らず、歩いていた彼は、ふと、違った知覚に衝つ
かれた。颯々さつさつ と、氷のような冷気に頭を吹きぬかれた。耳の穴からも、脳の中枢ちゅうすう
へも、どうどうと、暴風のほえるに似た音響がこみ入ってくる。 「おや。・・・・ここは、鳴滝なるたき
だ。・・・・高雄の山への道、ああ、紅葉もみじ
」 彼は、満山まんざん
の濡れ紅葉に、眼をこらした。まだ、朝の月もあるほの明りなのに、けさほど、あざらかに、物の見えたことはない。それは、自分を見出したことでもあった。 九月十四日の夜のことが、忽然こつねん
と、その場へ、ふたたび身を置かれたように思い出された。── あとに遺のこ
された衣川きぬかわ の媼おうな
の嘆きや、源ノ渡の恨みや、院の友輩ともばら
の嘲笑ちょうしょう 、世間の誹そし
りなども、声をそろえ、形相ぎょうそう
をなして、おそろしいばかり、自分をほえ責めている。──鳴滝川にほえ狂う、しぶきがみな、それに聞こえるのである。 「死のう。── 生きて、世に、面向おもむ
けのなる身かは」 突然、彼は、奔流へ向かって、答えた。よろ這ぼ
うて、一つの巌頭がんとう へ取っついた。そして、下をのぞいたが
── そのとき、かなたの岸から、石切男の一群が、瀬の岩から岩を跳び渡って来るのが見えた。盛遠は、パッと、すぐ逃げた。もう習性なのである。一気に、山の上まで、逃げのぼった。 抱えていた物を、前に置き、どたと、大地へ座り込んだ。肌の汗ばにを意識してか、胸毛をなでまわして、しばらく大きな呼吸をくり返していた。 自害の意志は、変っていない。正気を取り戻していると思う。──ゆるし給え恋人。彼は、目の前の人に掌て
をあわせた。 思い出される限りの人びとの名を称とな
え、彼は、同じように、心で詫わ
びた。そして、袈裟の首を、包から解いた。── 見てたまえ、死をもて詫びる盛遠の最期さいご
を。いまは、おなじ空骸むくろ
となる身ながら、ひと目、世の面影を、見て果てんものを ── と。 「・・・・」 漆うるし
に似た液体に乾から びついて、乱れた黒髪は頬ほお
といわず額ひたい といわず、藻も
のようにはりついていた。── 凝然ぎょうぜん
、盛遠は、またたきもしない。 なぜか、涙も出ない。 ああ恋人 ── かの君きみ
── とは、この物か。 ただまろい土塊どかい
にしか見えなかった物は、あたりの白むにつれ、次第に、すだれのような髪の毛の下に、骨ばかりになった皮膚の異様な変りかたをあらわした。一片の干貝のような耳、青蝋あおろう
を彫りくぼませたような瞼まぶた
のあたり、そして、紙のカビみたいな斑点はんてん
までが、浮いていた。それらの、形象は、どうしても、個々に見えて、もうふたたび、一つの顔として見ることは、不可能だった。 「・・・・ああ! 大日だいにち
。・・・・大日如来だいにちにょらい
」 そのとき、盛遠の眸ひとみ
は、土くれに近い亡骸なきがら
から、突然、はるかな空へ、ひかれていた。── いつか、彼の真正面に、まっ紅か
な太陽が、さし昇っていた。洛中の屋根も、東山連峰も、塔の尖さき
も、なべて一面の雲の海であり、見たものは、巨大な光焔こうえん
の車だけであった。 ふと、彼は、思い出した。 弘仁こうにん
のむかし、それは仏教にまだ、さんらんたる生命のあった世のころではあったが、嵯峨さが
天皇の皇后、橘たちばな ノ嘉智子かちこ
は、人間の中に二度とこのような麗人は生まれないだろうとしら言われたほどな美貌びぼう
でおわしたのに、人身の常、やがて崩ぜられた。しかも、その御遺旨ごいし
には、 (自分の屍かばね
は、都の西郊に捨てて、世の色餓鬼いろがき
たちの見せ物に与えてください。腐爛ふらん
したわたくしの亡な がらを見た人は、おそらく何か考えることがありましょう) と、あったので、おん心に背き難く、今までにない、林葬りんそう
という違例をとって、おん亡骸なきがら
を、野鳥やちょう や山犬の弔とむら
いに、委せたということである。 橘ノ嘉智子と、袈裟ノ前とが、彼の頭のうちで違わない人の思えた時、彼は、新しい呼吸をし直した。生々久遠せいせいくおん
の美と光をもつ日輪の前に、悩むこと、惑うこと、苦しむこと、何一つ、価値があると思えるものはない。──笑いたくさえなる。 だが、人間はある、果てなく生まれ次いでゆく。宇宙観の冷厳だけで、それを言い切ってしまっては、人間とは、余にも微小であわれ過ぎる。せめて、人間の中の範囲で、価値を見つけて生きあうのが、はかない者同士の、世の中というものではあるまいか。──と、思い出した彼は、何か、地上の価値を見つける者のびとりになろうと思った。生きる愚よりは、死ぬのは、なお大きな愚だと思った。 |