野へ回
すと、家畜も、まもなく、野獣になる。 愛らしい、籬まがき
の植物でも、畑の物でも、同じだという。 人間の場合は、その還元が、もっと速い。──たとえば、ここに見る遠藤武者えんどうむしゃ
盛遠もりとお などにしても、そうである。いかに人間は、一夜のうちにも、原始の半獣人はんじゅうじん
へすぐ還るものかを ── 彼の姿は、ありのまま、一つの生命に、ぶら下げていた。 (おれは、生きて行くのがいいのか、死ぬのがほんとうか。おれにも、分からなくなった。おれに、考えさせる暇も与えず、おれのあとから、たえず誰かが追つ
け狙ねら ってくる。おれは、休みたい。・・・・すこし、どこかで、息づきたい) かれは、のべつ
「おれが、おれが」 ── と、つきつめている。 「おれ」 なるものは、とうに失っている自分であるのに。 あの夜。──菖蒲あやめ
小路こうじ の一つやしきから、魔魅まみ
のごとく、影をくらましたきり、かれは、ちまたを見ていない。 土に寝、木の洞ほら
にひそみ、食物も火を用いない物ばかり食っていたらしいことは ── そのボロボロな衣服や、素足すあし
の血泥ちどろ や、そして急に獣じみてきた眼つきにも、わかる。 学問、良識のある彼。──
文章特業生もんじょうとくごうしょうをも嘱望しょくぼう
されていた秀才とは、これなのか。 こんんあにも、あとかたなく、身にとどまらない才学とは、ゆめ、思わず二、ひとを衆愚と視み
、誇りを高うしていた彼だろうに、面影もない。 あるのは、とにかく生きている ── 歩けば動く生き物の ──いのちがあるといえるだけである。 チチ、チチ。小鳥の音は、よく耳に透とお
る。兎うさぎ や鹿しか
を見れば、親しまれる。盛遠は次第に山の鳥獣たちが、自分の仲間に思われていた。── が、ガサとでも、人間の気配けはい
に襲われると、満身の毛は、すぐ針になった。 「──来たなっ」 抱えているまろい物を、かたく持ち直したまま、しばらくは、虹にじ
のような眠気がおさまらない。 彼の狩衣かりぎぬ
の片袖かたそで が、そのまろい物の包みに用いられていた。あの夜以来、かれが、かた時も手放さない袈裟けさ
の首級にちがいなかった。露や土にまみれ、にじみ出した血潮は漆うるし
みたいに干乾ひから びている。──あまつさえ、十数日を経ているので、異臭をもってきたことは、いうまでもない。 けれど彼は、夜も抱き、昼も抱き
── 抱いて、とろとろと、まどろむ時は、夢の中に現身うつしみ
の袈裟をみた。 袈裟は、彼だけには、いまも、容色を変えていない。私語ささめごと
する時の衣ずれや、においや、体温すらも、まざまざと、彼には分かる。ひたと、身を寄り添うてくるのでもあった。── 彼の枕元まくらもと
には、朽く ち葉は
に巣をつづる土蜘蛛つちぐも がはい、陽ひ
をみぬ菌きのこ が妖あや
しく生は えならんでいようとも、それは彼の事実ではないのだ。彼は思いのまま仙窟せんくつ
を夢の中に呼び降ろした。上西門院の花園に、かの君もまだ稚おさな
く、自分もまた小冠者であった日の、女蝶めちょう
男蝶おちょう のような二人がチラチラ相会うのである。──あわれ年ごろ恋痩や
せの男の、狂い死にをも、見過ごし給うか。この苦患くげん
を救いたもうもの、君をおいて、あらじを、あな、つれなき君かな。なんとて、渡わたる
が妻にはなり給える。かりのおん情けたりとも、一夜ひとよ
、枕を交か わし給えや。夫つま
あるひとの垣かき の、あだし妻花つまばな
を寝盗ねぬす むの科とが
、その罪業ざいごう 十悪じゅうあく
を越え、無間地獄むけんじごく
の火坑に落ちんもよし。何かは、この想いの苦しみにまさるべきかは。── 盛遠は、夢に、うなされぬくのである。 炎に似た夢は、袈裟の睫毛まつげ
をふさがせ、閉じたる唇くち を、舌もてあけ、袿うちぎ
のみだれから白い脛はぎ や、あらわな乳ち
のふくらみを見たりする。けれど、どうしても、どうしても、なお、焦や
きただらし得ない、何かがある。彼は、かの君の黒髪をつかんで想いを果たそうとあせり焦い
らだつ。── はっと、夢は、いつも、そのときの、もがきに、さめる。惜しくも、さめてしまうのである。 そのあと。── 盛遠はサメザメと泣きつづける。夜半よわ
の万象ばんしょう も、声をあわせて、彼のために哭な
く。 |