〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/29 (火) 鳥 獣 戯 画 (一)

野へかえ すと、家畜も、まもなく、野獣になる。
愛らしい、まがき の植物でも、畑の物でも、同じだという。
人間の場合は、その還元が、もっと速い。──たとえば、ここに見る遠藤武者えんどうむしゃ 盛遠もりとお などにしても、そうである。いかに人間は、一夜のうちにも、原始の半獣人はんじゅうじん へすぐ還るものかを ── 彼の姿は、ありのまま、一つの生命に、ぶら下げていた。
(おれは、生きて行くのがいいのか、死ぬのがほんとうか。おれにも、分からなくなった。おれに、考えさせる暇も与えず、おれのあとから、たえず誰かがねら ってくる。おれは、休みたい。・・・・すこし、どこかで、息づきたい)
かれは、のべつ 「おれが、おれが」 ── と、つきつめている。 「おれ」 なるものは、とうに失っている自分であるのに。
あの夜。──菖蒲あやめ 小路こうじ の一つやしきから、魔魅まみ のごとく、影をくらましたきり、かれは、ちまたを見ていない。
土に寝、木のほら にひそみ、食物も火を用いない物ばかり食っていたらしいことは ── そのボロボロな衣服や、素足すあし血泥ちどろ や、そして急に獣じみてきた眼つきにも、わかる。
学問、良識のある彼。── 文章特業生もんじょうとくごうしょうをも嘱望しょくぼう されていた秀才とは、これなのか。
こんんあにも、あとかたなく、身にとどまらない才学とは、ゆめ、思わず二、ひとを衆愚と 、誇りを高うしていた彼だろうに、面影もない。
あるのは、とにかく生きている ── 歩けば動く生き物の ──いのちがあるといえるだけである。
チチ、チチ。小鳥の音は、よく耳にとお る。うさぎ鹿しか を見れば、親しまれる。盛遠は次第に山の鳥獣たちが、自分の仲間に思われていた。── が、ガサとでも、人間の気配けはい に襲われると、満身の毛は、すぐ針になった。
「──来たなっ」
抱えているまろい物を、かたく持ち直したまま、しばらくは、にじ のような眠気がおさまらない。
彼の狩衣かりぎぬ片袖かたそで が、そのまろい物の包みに用いられていた。あの夜以来、かれが、かた時も手放さない袈裟けさ の首級にちがいなかった。露や土にまみれ、にじみ出した血潮はうるし みたいに干乾ひから びている。──あまつさえ、十数日を経ているので、異臭をもってきたことは、いうまでもない。
けれど彼は、夜も抱き、昼も抱き ── 抱いて、とろとろと、まどろむ時は、夢の中に現身うつしみ の袈裟をみた。
袈裟は、彼だけには、いまも、容色を変えていない。私語ささめごと する時の衣ずれや、においや、体温すらも、まざまざと、彼には分かる。ひたと、身を寄り添うてくるのでもあった。── 彼の枕元まくらもと には、 に巣をつづる土蜘蛛つちぐも がはい、 をみぬきのこあや しく えならんでいようとも、それは彼の事実ではないのだ。彼は思いのまま仙窟せんくつ を夢の中に呼び降ろした。上西門院の花園に、かの君もまだおさな く、自分もまた小冠者であった日の、女蝶めちょう 男蝶おちょう のような二人がチラチラ相会うのである。──あわれ年ごろ恋 せの男の、狂い死にをも、見過ごし給うか。この苦患くげん を救いたもうもの、君をおいて、あらじを、あな、つれなき君かな。なんとて、わたる が妻にはなり給える。かりのおん情けたりとも、一夜ひとよ 、枕を わし給えや。つま あるひとのかき の、あだし妻花つまばな寝盗ねぬす むのとが 、その罪業ざいごう 十悪じゅうあく を越え、無間地獄むけんじごく の火坑に落ちんもよし。何かは、この想いの苦しみにまさるべきかは。── 盛遠は、夢に、うなされぬくのである。
炎に似た夢は、袈裟の睫毛まつげ をふさがせ、閉じたるくち を、舌もてあけ、うちぎ のみだれから白いはぎ や、あらわな のふくらみを見たりする。けれど、どうしても、どうしても、なお、 きただらし得ない、何かがある。彼は、かの君の黒髪をつかんで想いを果たそうとあせり らだつ。── はっと、夢は、いつも、そのときの、もがきに、さめる。惜しくも、さめてしまうのである。
そのあと。── 盛遠はサメザメと泣きつづける。夜半よわ万象ばんしょう も、声をあわせて、彼のために く。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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