〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/27 (日)  じょう ぎん (四) 

「・・・・?」
清盛は、のろい牛の歩みが、遠くなるまで、ぼんやり立っていた。──母の言葉の裏が、その間に、解けた気がしていた。── 母は、別れた良人の忠盛を、もっと、不幸にしたがっているのだ。自分を、男親の側から奪って、見返してやろうとしているのではあるまいか。そうだ。瑠璃子を、おとりにして。
清盛は、手の菊を、いつの間にか、ちりじりの、 みむしって、棒だけにしていた。── それをムチのごとく持って、もとの大峰のつじたむろ へ帰って来た。
二頭のこま と、人影が一つ、たそがれの辻に、立ち残っていた。清盛は、元気がない。その人を案じ顔に待っていた木工助家貞も、元気がない。
「みなは、どうした。はや、引き揚げたか」
院宣いんぜん を奉じて、ひとまず、辻々つじつじ みな、この夕べ、引き払うてござりました。・・・・して、上西門院のお探りは」
「ムダだった。よせばよかったよ。・・・・じじ、父上は」
途々みちみち 、お物語いたしましょうず。まず、お馬に召されて」
清盛を、くら へ、うながし、つづいて、彼も馬上となった。
「院へ、もどるのか」
「いえ、今出川のおやしきへ」
清盛は、はて? と思った。当然、今宵は集合して、ひとまず、忠盛から、武者所一同へ、何かの辞をなすべきである。また、院の上皇、別当に召されて、慰労はなくも、向後のおさしずを、仰ぐところだ。どうしてだろう、不審である。
「木工助、何か、父上のお身に、さしつかえでも、起こったのか」
「明日からの御出仕を、ふたたび、思いとど まられたやに、伺いました」
「や、ほんとか。・・・・盛遠が捕まらぬとてか」
「内に、豪気をつつむ御方。そのような一事の めとも覚えませぬ。例のごとく、公卿たちの、殿への憎しみが、表になったものでおざろう。日ごろのあることないこと、、非違ひい指弾しだん の粉々のうるささに、さしも、かなわじと、破れ果ててのおん顔・・・・じじも、無念の涙に、よう詳しくもまだ、伺うてはおりませぬ」
「じゃあ、また、籠居ろうきょ か ──」 清盛は、また貧乏かと、言いたかった。よろい が、急に、重たく思う。── 木工助家貞は、つぶやいた。
「ああなぜか、御運ごうん がひらきませぬ。かくも、主従、武者勤むしゃづと めに、まごころを、くだくといえども、時やら、世の悪さやら・・・・。いつかきっと、御運の芽が」
清盛は、ふと、自分の声とも思えない意識で、馬上の歌みたいに、言い出した。
「おれがいるよ、じじ、俺が・・・・。言ったではないか、いつか、そちが。天地が生んだ一個のもの、手も足も片輪ではおざるまいに ── と。その一匹がここにいる。なんの、運など、あてにすることはないわさ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next