清盛は、足を回
した。是非もない気持だった。背になお、嘲笑ちょうしょう
を聞く思いがする。 「・・・・どなたの牛車だろう。いま、上西門院を出て来られたのは」 振り向くと、牛は、こっちへ歩いて来る。網代廂あじろびさし
、花うるしのはこ、轅ながえ 、車の輪など、金銀のちりばめに、茜あかね
しかけた夕陽が映は えて、まばゆい女車である。 しかし、内親王のお用いになる糸毛いとげ
ぐるまでもなし、従者も見えず、ただひとりの牛飼童うしかいわっぱ
が、笹ささ を持って、秋の蠅はえ
を追いつつ来るに過ぎないので、彼は、杉の木陰こかげ
にたたずみ、眼の前を、よぎる牛車の内を、無遠慮に見上げた。 「・・・・あれ?」 たしかに上で、声がした。廉れん
を巻き、牛を止とど めさせた。──
と、思いがけない人が、外をのぞいて、平太と呼んだ。 「あ。母上・・・」 無意識に、轅ながえ
の横へとびついて、 「いま、上西門院を、お出ましになったのは、この車ですか。母上でしたか」 「なにを、いきなりそのように、急せ
き込こ んで、たずねるのです。いつ会っても、そなたはわたくしへ、なつかしそうな顔もしない」 泰子やすこ
は、五衣いつつぎぬ の袿うちぎ
に、いつもながら、艶あで やかに化粧していた。家で朝夕に見ていたときより、加茂で会った時より、見るたびに、若くなり、見よがしに、着飾っている。 「つい、そこの御門側ごもんそく
で、忠正どのが、あいさつに、待ち受けていやったが、そなたのことは、何も、言いもしなかった。そなたは、忠正殿と、一つにいたのではないのか」 「叔父御は、近ごろ、母上へ、あんな礼を執と
ったり、親しく、寄ってゆくのですか」 「ま。・・・・おかしげな」 と、泰子は、清盛の勝手な口早さを、笑った。 「わたくしの問いには、答えもせで、そなたは、ひとにたずねてばかりいやる。忠正とて、以前とはちがい、よう侍かしず
いてくれまする」 「堀川の叔母もともに、いつも口をそろえて、あんなに母上の悪口を申していたのが?」 「それですから、貧乏はいやでしょう。ねえ、平太。おわかりであろう。・・・・わたくしが近ごろ、内親王さまのお気に召して、舞のおあいてに伺うので、忠正どのも、まるで、家従かじゅう
のように、よくしますの。わたくしに、よく思われなければ、あのひとも、出世のために、損ですからね」 「なアんだ、そんなためにか」 清盛は、牛の足元へ、唾つば
をした。あの叔父らしい、と思うしかない。 また、この母が、上西門院へ伺候するのも、いずれは、中御門殿あたりの口ききで、むかしの、白拍子の地じ
を出して、御興に取り入っているものにすぎない。叔父とは、よい肌はだ
合いだ。清盛は、父ならぬ父忠盛の方が、こうしていても、はるかに、骨肉に感じるのだった。実の母を、眼に見ている時ほど、かえって、思いは、そう募つの
った。 つまらなくなる、浅ましくなる、悲しくなる。清盛は、母を見ると、不幸になる。牛の背中の秋蠅が、やたらに顔を襲うので、それにも、焦いら
らだち、逃げるように、別れかけた。 「すると、泰子は、あわてて彼を呼び返した。そして、平太・・・・と、母のくせに、艶なまめ
いた眼を、子へ、して見せた。 「・・・・そなたは、何かまだ、わたくしに、問いたいことが、あったはずでしょう?」 清盛は、どきっとした。母の蔭かげ
に、もうひとり、潜ひそ むがごとく、乗っていた人を見ると、瑠璃子るりこ
であった。 「平太。・・・・何も話しはありませんの。・・・・ホホホホ。瑠璃子様、これを平太へ、あげてくださってもよろしいでしょう」 瑠璃子は、うなずいたきり、泰子の肩の蔭へ、顔を埋めた。その下から、泰子は、めずらしい乱菊らんぎく
の剪き り花ばな
を、一枝とって。── これは、内親王さまからいただいたのではあるが、瑠璃子さまから、そなたへ贈ってくださるという。そなたは、菊の花に寄せて、歌を詠よ
み、その歌をたずさえて、近いうちに、中御門どのの対ノ屋へ遊びに来るがよい。きっと、よい歌をお見せなさい。瑠璃子さまの心に染むような、よい歌を ──と。 |