〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/26 (土)  じょう ぎん (三) 

清盛は、足をかえ した。是非もない気持だった。背になお、嘲笑ちょうしょう を聞く思いがする。
「・・・・どなたの牛車だろう。いま、上西門院を出て来られたのは」
振り向くと、牛は、こっちへ歩いて来る。網代廂あじろびさし 、花うるしのはこ、ながえ 、車の輪など、金銀のちりばめに、あかね しかけた夕陽が えて、まばゆい女車である。
しかし、内親王のお用いになる糸毛いとげ ぐるまでもなし、従者も見えず、ただひとりの牛飼童うしかいわっぱ が、ささ を持って、秋のはえ を追いつつ来るに過ぎないので、彼は、杉の木陰こかげ にたたずみ、眼の前を、よぎる牛車の内を、無遠慮に見上げた。
「・・・・あれ?」
たしかに上で、声がした。れん を巻き、牛をとど めさせた。── と、思いがけない人が、外をのぞいて、平太と呼んだ。
「あ。母上・・・」 無意識に、ながえ の横へとびついて、 「いま、上西門院を、お出ましになったのは、この車ですか。母上でしたか」
「なにを、いきなりそのように、 んで、たずねるのです。いつ会っても、そなたはわたくしへ、なつかしそうな顔もしない」
泰子やすこ は、五衣いつつぎぬうちぎ に、いつもながら、あで やかに化粧していた。家で朝夕に見ていたときより、加茂で会った時より、見るたびに、若くなり、見よがしに、着飾っている。
「つい、そこの御門側ごもんそく で、忠正どのが、あいさつに、待ち受けていやったが、そなたのことは、何も、言いもしなかった。そなたは、忠正殿と、一つにいたのではないのか」
「叔父御は、近ごろ、母上へ、あんな礼を ったり、親しく、寄ってゆくのですか」
「ま。・・・・おかしげな」 と、泰子は、清盛の勝手な口早さを、笑った。 「わたくしの問いには、答えもせで、そなたは、ひとにたずねてばかりいやる。忠正とて、以前とはちがい、ようかしず いてくれまする」
「堀川の叔母もともに、いつも口をそろえて、あんなに母上の悪口を申していたのが?」
「それですから、貧乏はいやでしょう。ねえ、平太。おわかりであろう。・・・・わたくしが近ごろ、内親王さまのお気に召して、舞のおあいてに伺うので、忠正どのも、まるで、家従かじゅう のように、よくしますの。わたくしに、よく思われなければ、あのひとも、出世のために、損ですからね」
「なアんだ、そんなためにか」 清盛は、牛の足元へ、つば をした。あの叔父らしい、と思うしかない。
また、この母が、上西門院へ伺候するのも、いずれは、中御門殿あたりの口ききで、むかしの、白拍子の を出して、御興に取り入っているものにすぎない。叔父とは、よいはだ 合いだ。清盛は、父ならぬ父忠盛の方が、こうしていても、はるかに、骨肉に感じるのだった。実の母を、眼に見ている時ほど、かえって、思いは、そうつの った。
つまらなくなる、浅ましくなる、悲しくなる。清盛は、母を見ると、不幸になる。牛の背中の秋蠅が、やたらに顔を襲うので、それにも、いら らだち、逃げるように、別れかけた。
「すると、泰子は、あわてて彼を呼び返した。そして、平太・・・・と、母のくせに、なまめ いた眼を、子へ、して見せた。
「・・・・そなたは、何かまだ、わたくしに、問いたいことが、あったはずでしょう?」
清盛は、どきっとした。母のかげ に、もうひとり、ひそ むがごとく、乗っていた人を見ると、瑠璃子るりこ であった。
「平太。・・・・何も話しはありませんの。・・・・ホホホホ。瑠璃子様、これを平太へ、あげてくださってもよろしいでしょう」
瑠璃子は、うなずいたきり、泰子の肩の蔭へ、顔を埋めた。その下から、泰子は、めずらしい乱菊らんぎくばな を、一枝とって。── これは、内親王さまからいただいたのではあるが、瑠璃子さまから、そなたへ贈ってくださるという。そなたは、菊の花に寄せて、歌を み、その歌をたずさえて、近いうちに、中御門どのの対ノ屋へ遊びに来るがよい。きっと、よい歌をお見せなさい。瑠璃子さまの心に染むような、よい歌を ──と。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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