〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻
2012/01/24 てい そう ひやつ (二)

否、袈裟のとった死と、貞操の守り方は、かんばしいことではない。女性通有な、心のせまさから、思慮にまどって、つい、あんな行き過ぎへ、自己を、突き落としてしまったものと思われる。──そう世論して、うわさを、片づけてしまう堂上人もないではない。
こうした一部の公卿たちは、
「したが、ゆゆしいことであはある。一布衣ほい の妻が、良人の身代わりに、邪恋の男のやいば で死んだ ── というだけなら、市井しせい の一些事さじ 。何も院をあげて、そう めくにもおよばないが・・・・・問題は、武者所にある。武者所のみだ れに」
と、まったく、批判の焦点を、べつに指摘した。
「かしこくも、院の御警衛に任じ、事あれば、洛内の騒擾そうじょう にも せむかい、ときには、伝奏でんそう をもつかまつ る北面のともがら が、近ごろの、放埓ほうらつ なる素行そこう は、何事ぞや、遠藤盛遠に似たるは、ひとりやふたりとも思えぬ」
「されば、このたびの曲事ひがごと など、今どきの若い北面どもが、いかにも、やりそうなことではあるよ」
「すでに、袈裟の葬儀もすみ、事件以後、はや数日を費やしながら、いまだに、下手人盛遠を、捕え得ぬなど、言語道断。ひとりの痴漢ちかん をからめ るにすら、かくも能なき武者所に、なんで非常のときを、たの めようか」
ここには、堂上心理の動きがうかがえる。ヒソヒソ、コソコソ、眼顔めがお の集まりが、やがては、声を大にして言う。
「この めは。忠盛にこそあるなれ。忠盛が、なお、おめおめと伺候しこう するなど、いかがあろうか」
「かれや、武者所の所司しょし
「なかんずく、この春、諸国のまき馬献上うまのぼせ に際し、院の けしきに、へつろうて、不吉なる四白よつじろ の凶馬を入れ、袈裟の良人源ノ渡へ飼わせたるこそ、忠盛がとが というも、はばからぬ」
「それよ、かりそめにも、禁忌きんきおか すまじきは、法令にまさる、堂上の大則でみあるのに」
ついに衆判しゅうはん にかけて、議は、上皇のまえにまで、持ち出された。
上皇は、お困りのようであった。ややもすると、眼のかたきに、すぐ忠盛を衆判にかけるような堂上たちのしつ こい反目は、遠い、昇殿問題に起因している。名誉に似たわざわ いを、求めもせぬ忠盛ににな わせたのは、余人でもない、御自分である。
けれど、誠実な人間へ、愛とと信頼とを感じてゆくのは、どうしても、しかたがない。君主の道でもある。上皇は、そう信じておられる。
ことには、近ごろのように、どことなく、世上の安からぬとき、忠盛をたの みに思し召しておられたにはちがいない。忠盛が院庭いんてい に見えぬ日は心さびしいと、仰っしゃったことすらある。
「そうそう、仁和寺にんなじ へ行く日は、もう幾日いくにち もないのであろうな・・・・」 上皇は、ふと、公卿たちのいかめしげな物議ぶつぎ を、あらぬ方へかわ されて──
「盛遠の追捕も、後日の詮議せんぎ として、ほどほどに、ひとまず、止めさせては、どうか。凶相の馬を、渡に手飼てが わせたるは、忠盛の罪と申すが、ゆるしたのは、ちん であった。おこと らが、山科道理やましなどうり をいいたてては、おかしいぞ。そうことをあららげるな、余には」
と、苦笑いのうちに、人びとを、なだめられた。
“ 山科道理” とは、当時の、はやり言葉の一つだった。山科興福寺の衆僧が、まいど、何千という大衆の示威をもって、 のない所にムリな理屈をつけ、禁門や院へ強訴ごうそ に押し寄せてくる。これには、さきの上皇白河も手をやいて 「ちん が意ににもままならぬもの、加茂川の水、すごろくのさい 、叡山の荒法師あらほうし 」 と嘆じられたこともある通り、ひとり叡山だけでなく、山科道理は公卿たちの最もおそれる横車なのである。
上皇の、この御一言に、うるさがた の公卿沙汰ざた も、一応は、退き下がったが、しかし陰性は、そく 公卿性である。決して、 んだわけではない。
ただし、盛遠詮議の辻立つじだ ちは、あすかぎで止めよ、という院宣いんぜん は、ただちに洛中各所の、武者のたむろ へ、つたえられた。
七日のあいだも、むなしく、道々の口に手勢を張って、盛遠追捕に、腐心していた武者所の面々は、この令に、恐懼きょうく もしたが、みな、がっかりした顔つきで、嘆じあった。
「そも、あの悪盛遠めは、袈裟の首を、抱いたまま、いったい、どこへ姿をくらまし去ったものぞ。地へでももぐ ったか、どこかで、自害でもしてしまったのか」 ──と。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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