否、袈裟のとった死と、貞操の守り方は、かんばしいことではない。女性通有な、心のせまさから、思慮にまどって、つい、あんな行き過ぎへ、自己を、突き落としてしまったものと思われる。──そう世論して、うわさを、片づけてしまう堂上人もないではない。 こうした一部の公卿たちは、 「したが、ゆゆしいことであはある。一布衣
の妻が、良人の身代わりに、邪恋の男の刃やいば
で死んだ ── というだけなら、市井しせい
の一些事さじ 。何も院をあげて、騒そう
めくにもおよばないが・・・・・問題は、武者所にある。武者所の紊みだ
れに」 と、まったく、批判の焦点を、べつに指摘した。 「かしこくも、院の御警衛に任じ、事あれば、洛内の騒擾そうじょう
にも馳は せむかい、ときには、伝奏でんそう
をも仕つかまつ る北面の輩ともがら
が、近ごろの、放埓ほうらつ なる素行そこう
は、何事ぞや、遠藤盛遠に似たるは、ひとりやふたりとも思えぬ」 「されば、このたびの曲事ひがごと
など、今どきの若い北面どもが、いかにも、やりそうなことではあるよ」 「すでに、袈裟の葬儀もすみ、事件以後、はや数日を費やしながら、いまだに、下手人盛遠を、捕え得ぬなど、言語道断。ひとりの痴漢ちかん
をからめ捕と るにすら、かくも能なき武者所に、なんで非常のときを、恃たの
めようか」 ここには、堂上心理の動きがうかがえる。ヒソヒソ、コソコソ、眼顔めがお
の集まりが、やがては、声を大にして言う。 「この責せ
めは。忠盛にこそあるなれ。忠盛が、なお、おめおめと伺候しこう
するなど、いかがあろうか」 「かれや、武者所の所司しょし
」 「なかんずく、この春、諸国の牧まき
の馬献上うまのぼせ に際し、院の御み
けしきに、へつろうて、不吉なる四白よつじろ
の凶馬を入れ、袈裟の良人源ノ渡へ飼わせたるこそ、忠盛が科とが
というも、はばからぬ」 「それよ、かりそめにも、禁忌きんき
を冒おか すまじきは、法令にまさる、堂上の大則でみあるのに」 ついに衆判しゅうはん
にかけて、議は、上皇のまえにまで、持ち出された。 上皇は、お困りのようであった。ややもすると、眼のかたきに、すぐ忠盛を衆判にかけるような堂上たちの執しつ
こい反目は、遠い、昇殿問題に起因している。名誉に似た禍わざわ
いを、求めもせぬ忠盛に担にな
わせたのは、余人でもない、御自分である。 けれど、誠実な人間へ、愛とと信頼とを感じてゆくのは、どうしても、しかたがない。君主の道でもある。上皇は、そう信じておられる。 ことには、近ごろのように、どことなく、世上の安からぬとき、忠盛を恃たの
みに思し召しておられたにはちがいない。忠盛が院庭いんてい
に見えぬ日は心さびしいと、仰っしゃったことすらある。 「そうそう、仁和寺にんなじ
へ行く日は、もう幾日いくにち
もないのであろうな・・・・」 上皇は、ふと、公卿たちのいかめしげな物議ぶつぎ
を、あらぬ方へ交かわ されて── 「盛遠の追捕も、後日の詮議せんぎ
として、ほどほどに、ひとまず、止めさせては、どうか。凶相の馬を、渡に手飼てが
わせたるは、忠盛の罪と申すが、ゆるしたのは、朕ちん
であった。お卿こと らが、山科道理やましなどうり
をいいたてては、おかしいぞ。そうことをあららげるな、余には」 と、苦笑いのうちに、人びとを、なだめられた。 “ 山科道理” とは、当時の、はやり言葉の一つだった。山科興福寺の衆僧が、まいど、何千という大衆の示威をもって、柄え
のない所にムリな理屈をつけ、禁門や院へ強訴ごうそ
に押し寄せてくる。これには、さきの上皇白河も手をやいて 「朕ちん
が意ににもままならぬもの、加茂川の水、すごろくの賽さい
、叡山の荒法師あらほうし 」
と嘆じられたこともある通り、ひとり叡山だけでなく、山科道理は公卿たちの最もおそれる横車なのである。 上皇の、この御一言に、うるさ方がた
の公卿沙汰ざた も、一応は、退き下がったが、しかし陰性は、即そく
公卿性である。決して、熄や んだわけではない。 ただし、盛遠詮議の辻立つじだ
ちは、あすかぎで止めよ、という院宣いんぜん
は、ただちに洛中各所の、武者の屯たむろ
へ、つたえられた。 七日のあいだも、むなしく、道々の口に手勢を張って、盛遠追捕に、腐心していた武者所の面々は、この令に、恐懼きょうく
もしたが、みな、がっかりした顔つきで、嘆じあった。 「そも、あの悪盛遠めは、袈裟の首を、抱いたまま、いったい、どこへ姿をくらまし去ったものぞ。地へでも潜もぐ
ったか、どこかで、自害でもしてしまったのか」 ──と。 |