〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻
2013/01/22 (火)  の 夢 (三)

妄想の子の、あわれな影が、夏ごろから、この秋も、幾たびか、中御門家の裏あたりを、うろついていたのは事実である。
今夜の彼も、いつかそこへ来ていた。広い築土ついじ のそとに、自分を見失っている彼の影が見られた。
「だめだ。・・・・俺は、意気地がない」
わが家の築土は、越えもするが、この築土は、高く見える。
この中の、東の対ノ屋には、母の泰子が住んでいる。その母が、加茂の競馬でささやいた。・・・・遊びにおいで、瑠璃子さまとも、よいお友だちになれるであろうと。
加茂の桟敷さじき で見た瑠璃子はきれいな人だった。妄想の子の対象には高貴すぎる姫である。母にことよせて、忍び寄れない事もあるまい。──と、恋ではなく、彼は妄想するのである。
しかし彼は、ここまで来ると、いつも勇気を欠いてしまう。卑下のためだと、自分でもわかる。ヨレヨレな布直垂ぬのひたたれ に切れ草履の貧しげなる無位むい地下人ちげびと 。かえりみては、つい、ひる まずにいられない。
公卿輩くげばら公達きんだち なかまでは、やごとなき摂家せっけ の姫君をすら、はぎ すすきの野ずえに き盗み出しまいらせて、朝月のほの白むまで、露しとどな目にお わせして、人目ひとめ ひそ に、帰しまいらせたとか。──また、つれづれに内裏だいり典侍てんじ命婦みょうぶ のかよう廊ノ間に落しぶみ をしておけば、その夜の忍ぶ手のまさぐりに、ねば き黒髪と熱いくちびる が、伽羅きゃら などというこう るるににやあらんやみに待ちもうけていて、なかなか えがちな弱男よわおとこ などは、暁の鶏も待たで逃げ帰ってしまうほどであるなどという話しも──めずらしくないほど、清盛はつねに聞かされているのだが、どうして自分の前には、そんな運命がやって来ないのであろうか。
(卑下だ。この卑下さえ、 飛ばせば・・・・)
彼は、自分を乗り越えるような気持で、そこの築土ついじ と直面した。今夜こそと思った。盗賊に似た勇をふるおうと覚悟した。
けれどそれを、心の中でたたか った時、そして必死に実行へかかったとき。彼の影は、高い築土の上にあったが、彼の中の妄想は、かえって燃焼されていた。発汗した毛孔けあな を風に吹き まされたように、ふと、
(── 待てよ) と、考えた。彼の胸に、妄想と一つに同棲どうせい しているべつな思慮のものが呼びかけていたのである。
(木工助じじが、いつか、まくら もとにすわって、しみじみ言った。和子様とて、まちがいなく、一個の 。手も脚も、片輪じゃおざるまいに──と。上皇の子であれ、不義の子であれ、俺は、じじのいう通り、天地が生んだ一個のものだ。なにをおどどと、こんな真似をするのか。俺が、盗もうとしているのは、実は、俺の中にあるものに過ぎないじゃないか。・・・・俺の中の欲望)
彼は、奇態きたい な所へ乗っている自分の姿に笑いたくなった。一天の銀河が頭上に振り仰がれた。俺の位置はいま滑稽こっけいちゅう ぶらりんを描いているが、しかし秋夜の大気をこうしてひとり めしてみたのは悪い気持でもないと思う。
「おや。・・・・まただぞ」
遠くの火事である。
清盛は、洛内らくない の屋根の一つにひとみ をこらした。
洛内の火事は、めずらしくない。それはすべて放火だという。無情な貴族繁栄、民意ではわからない二院政治、暴威のみふるう武装僧団──そういう少数の下に無数の食えない層が、うすい筋骨を重ねて眠っている都の真夜中まよなか というものほど不気味な地上はない。 ──赤く、めらめらと、揚げているほのお の舌こそ、飢民の舌である。かれらに、言論はないが、放火は彼らの世論だった。──美福門の火事、西坊城の火事、鳥羽院別当門の火事、関白忠通の別荘の火事など、近年のそれはみなただごととは思えない。しかも、火の雨の下、黒けむりのうち、時こそと、おどる者は、これまた、藤原氏の栄花と宿業しゅくごう をともにして生息する地下の群盗であった。
清盛は、築土のみねから、飛び降りた。
内へでなく、外へ。──そして、ざわ めき出した街音を、肩に切って、彼らしく駆け出していた。

※命婦
宮中女官の階級の一つ。四位・五位の女官を内命婦、五位以上の官人の妻を外命婦という。 「めいふ」 ともいった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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