妄想の子の、あわれな影が、夏ごろから、この秋も、幾たびか、中御門家の裏あたりを、うろついていたのは事実である。 今夜の彼も、いつかそこへ来ていた。広い築土
のそとに、自分を見失っている彼の影が見られた。 「だめだ。・・・・俺は、意気地がない」 わが家の築土は、越えもするが、この築土は、高く見える。 この中の、東の対ノ屋には、母の泰子が住んでいる。その母が、加茂の競馬でささやいた。・・・・遊びにおいで、瑠璃子さまとも、よいお友だちになれるであろうと。 加茂の桟敷さじき
で見た瑠璃子はきれいな人だった。妄想の子の対象には高貴すぎる姫である。母にことよせて、忍び寄れない事もあるまい。──と、恋ではなく、彼は妄想するのである。 しかし彼は、ここまで来ると、いつも勇気を欠いてしまう。卑下のためだと、自分でもわかる。ヨレヨレな布直垂ぬのひたたれ
に切れ草履の貧しげなる無位むい
の地下人ちげびと 。かえりみては、つい、怯ひる
まずにいられない。 公卿輩くげばら
の公達きんだち なかまでは、やごとなき摂家せっけ
の姫君をすら、萩はぎ すすきの野ずえに担か
き盗み出しまいらせて、朝月のほの白むまで、露しとどな目にお遭あ
わせして、人目ひとめ 秘ひそ
に、帰しまいらせたとか。──また、つれづれに内裏だいり
の典侍てんじ や命婦みょうぶ
のかよう廊ノ間に落し文ぶみ をしておけば、その夜の忍ぶ手のまさぐりに、粘ねば
き黒髪と熱い唇くちびる が、伽羅きゃら
などという焚た き香こう
の蒸む るるににやあらんやみに待ちもうけていて、なかなか萎な
えがちな弱男よわおとこ などは、暁の鶏も待たで逃げ帰ってしまうほどであるなどという話しも──めずらしくないほど、清盛はつねに聞かされているのだが、どうして自分の前には、そんな運命がやって来ないのであろうか。 (卑下だ。この卑下さえ、蹴け
飛ばせば・・・・) 彼は、自分を乗り越えるような気持で、そこの築土ついじ
と直面した。今夜こそと思った。盗賊に似た勇をふるおうと覚悟した。 けれどそれを、心の中で闘たたか
った時、そして必死に実行へかかったとき。彼の影は、高い築土の上にあったが、彼の中の妄想は、かえって燃焼されていた。発汗した毛孔けあな
を風に吹き醒さ まされたように、ふと、 (──
待てよ) と、考えた。彼の胸に、妄想と一つに同棲どうせい
しているべつな思慮のものが呼びかけていたのである。 (木工助じじが、いつか、枕まくら
もとにすわって、しみじみ言った。和子様とて、まちがいなく、一個の男お
の児こ 。手も脚も、片輪じゃおざるまいに──と。上皇の子であれ、不義の子であれ、俺は、じじのいう通り、天地が生んだ一個のものだ。なにをおどどと、こんな真似をするのか。俺が、盗もうとしているのは、実は、俺の中にあるものに過ぎないじゃないか。・・・・俺の中の欲望) 彼は、奇態きたい
な所へ乗っている自分の姿に笑いたくなった。一天の銀河が頭上に振り仰がれた。俺の位置はいま滑稽こっけい
な宙ちゅう ぶらりんを描いているが、しかし秋夜の大気をこうしてひとり占じ
めしてみたのは悪い気持でもないと思う。 「おや。・・・・まただぞ」 遠くの火事である。 清盛は、洛内らくない
の屋根の一つに眸ひとみ をこらした。 洛内の火事は、めずらしくない。それはすべて放火だという。無情な貴族繁栄、民意ではわからない二院政治、暴威のみふるう武装僧団──そういう少数の下に無数の食えない層が、うすい筋骨を重ねて眠っている都の真夜中まよなか
というものほど不気味な地上はない。 ──赤く、めらめらと、揚げている焔ほのお
の舌こそ、飢民の舌である。かれらに、言論はないが、放火は彼らの世論だった。──美福門の火事、西坊城の火事、鳥羽院別当門の火事、関白忠通の別荘の火事など、近年のそれはみなただごととは思えない。しかも、火の雨の下、黒けむりのうち、時こそと、おどる者は、これまた、藤原氏の栄花と宿業しゅくごう
をともにして生息する地下の群盗であった。 清盛は、築土のみねから、飛び降りた。 内へでなく、外へ。──そして、騒ざわ
めき出した街音を、肩に切って、彼らしく駆け出していた。 |