〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻
2013/01/23 (水)   えい (一)

秋の長雨が続き、憂えられたが、ことしは、加茂や桂川の出水もなく、九月の北山は、紅葉しかけた。
仁和寺にんなじ の御幸も、あと十日ほどしかない。院の武者所むしゃどころ は、その日の支度に忙しかった。清盛は、こんど初めて、六位の布衣ほいじょ せられて、御車の随身ずいしん を仰せつかった。へんてこな自責感に問われたものの、正直に彼は嬉しがった。随身は、選ばれたる近衛の騎馬将校である。あやま ちのないように勤めようと思う。
人々役々で、退どき はちがうが、清盛はこのところ、帰宅は毎日、夜おそくなった。疲れる、腹がすく、妄想もうそう のいとまもない。結局、彼は救われた気がした。まくら につけば、正体なく、すぐ快睡の状態になれた。
九月十四日。
──夜半よなか というのも当らない。四更しこう のころである。
清盛の寝屋へむかって、あわただしい足音が けた。郎党の平六家長だ。武者仕えの男の、ひごろからな心掛けが出て、声高こわだか に、呼ばわり告げることには。──何事か一大事なそうろ うずらん、ただいま、院の宿直とのい より早馬にてのお召しにこそあるなれ、いそぎもの つけて、そろ へ渡られそうらえ。早く、早く──と、促すのだった。
「なに、不時のお召しだと?」
清盛は、足音に、逸早いちはや く、とび起きていたので、さしても驚かなかったが、弟の経盛は、歯の根も合わず、あたふた言う。
「な、なんでしょう、兄者人あんじゃびと 。まさか、合戦ではないでしょうが」
「わからぬぞ。いつ、何があるか」
「また、叡山えいざん か、興福寺の大衆だいしゅう が、強訴ごうそ にでも、押し寄せて来たのでしょうか」
清盛は、具足櫃ぐそくびつ から、胴、すねあて草摺くさずり など、つかみ出しては、手早く、身に着けながら、
「父上のお居間へ行って上げい。俺たちの母はいない父上。おまえでも行って、お手伝いしてあげろ」
「いえ、父上のそばへは、木工助が行っています。兄者人、わたくしも、具足を着けましょうか」
「おまえなど・・・・」 と、清盛は、思わず微笑びしょう した。
「留守でもしておれ。小さい、弟たちを、泣かさぬように」
おく のまわりは、降るような物音だ。郎党たちが、うまや から馬を引き出し、土倉から武器、松明たいまつ など取り出して、しかりあい、わめきあいしながら、気負きお いをなしているらしい。
そろ へ出た。武家にはどこにもある空地である。忠盛はもう馬上にあった。清盛の参加をみとめると、すぐ木工助家貞に門を開かせ、先に立った。清盛の馬もつづく。家貞、家長の父子、徒歩の郎党十六、七人も、長刀を小わきに、おくれじと、 け続いた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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