「あ。・・・・兄者人
、お出かけですか」 「行って来るよ。どうしようかと、考えていたのだが」 「こんな夜更けに、どちらへです」 「さきごろ、源ノ渡の邸へ、同僚どもと、招かれたおり、つい、約してしもうたのだ。──月の夜には、例の四白よつじろ
の青毛あお を引き出し、強い地乗じの
りを試みているから、いちど見に来てくれといわれて」 「へえ・・・・? 夜半よなか
に、馬の調練ですか」 「騎者、おのおのが、持ち馬の脚あし
を秘ひ し合うて、その日に臨むのは、競馬の策戦で、ふしぎはない」 「うそ、うそでしょう、兄者人」 「なにっ」 屋内の小さい灯ひ
の虹輪にじわ を、清盛は、にらみつけた。──と、その眼のうちへ、飛び込んで来るように、机を離れた経盛は駆け降りて来た。そして兄のこわい顔へ、小声で触れた。 「・・・・母上へ、よろしく言ってください。ね、兄者人。・・・・そして、これを、お渡ししてくれませんか」 「な、なんだ?」
と、清盛は、狼狽ろうばい して、弟が、自分のふところへ突っ込んだ手紙らしい物を、ふところの中で、触ってみた。 「でも、兄者人は、母上の許へ、そっと、会いにおいでになるんでしょう。・・・・経盛も、会いとうございます。父とは、別れたお方でも、子には、切れない母上。・・・・お顔を見たい。・・・・経盛も、お会いしたくて、たまりません。・・・・けれど、時の来るまで、こらえておりますと、兄者人からも、仰っしゃってください。手紙には、書きましたが」 俯向うつむ
いていう弟の鼻の先から、一粒一粒、月を宿した涙が、ポトポト落ちる。これは、滑稽千万こっけいせんばん
だ。弟は、勘違いしているらしい。だれが、あんな母を慕ってなどいるものか。──清盛はいいかけた。しかし、弟の泣きじゃくりにも、つり込まれそうになった。 「ちがうよ、経盛、おれは、渡との、約束で」 「いえ、おかくしなさいますな。兄者人の影を、中御門家の近くで見たお人もあるのですから。・・・・その客人が、父上にも、話しておりました」 「えっ、父上に。・・・・だれだ、そんな出たらめを、いった奴は」 「時信様です。──軽薄な堂上方のうちでも、あの人だけはと、父上も、かくべつ、お親しくしている藤原時信様ですから、わたくしも、疑いません」 「ふウ・・・・む。あの爺様じじさま
。このごろまた、やって来るのか」 「何か、院では、お話の出来ぬ相談事でもあるとみえて」 「そいつは、思わざる伏兵だ」 清盛は、あっさり、固執を捨てて、頭をかいた──
「そう、知れていては、仕方がない。白状するよ、経盛。おまえの手紙は、母上に渡してやろう。・・・・だが、父上も、俺に言ってくだすったことがあるんだ。母に会いたくば、いつでも、会いに行くがよいと」 「じゃあ、兄上、いっそ経盛も、ご一緒に参りましょうか」 「ばかをいえ」
清盛は、うろたえて、 「父上のお気持にもなって見い!」 と脅おど
しつけた。 「そこは、男親のつらいお慈悲だ。甘えてはならぬ。また、俺の夜歩きを、わざわざお耳に入れる必要もないぞ。いいか、木工助もくのすけ
にも、黙っておれよ」 清盛は、築土ついじ
を飛び越えて、外へ降りた。──なお、百歩ほどは、経盛の泣き顔が、目先にあったが、すぐ忘れ、銀河の夜風に、二十歳はたち
の体温を吹かせて歩いた。 放たれた魚の肺にも似て、彼は、秋の夜を呼吸した。だが、行くあては何もない。何が欲しくて、sるいは不平で、宵から自じ
ぶくれていたのやら、自分でも、気が知れないのだ。 しかし、外ではなく、かれ自体、持て余しているものが内にある。妄想もうそう
させ、凶暴にさせ、涙もろくさせ、不眠にさせ、主体の彼でも、処置のつかないものである。父母未生前みしょうぜん
にまでさかのぼって、人間に善を説く仏だの神だのもありとしながら、主体の許容もなく、人の子の血管に、こんな性を忍び込ませておいたのはだれなのか。 ──清盛はいいたい。──苦しい、気が狂ちが
いそうになる。これは、白河上皇か母にあったものにちがいない。上皇か母が俺に持たせたものだ。俺のする事は、俺だけの責任ではない。 とはいえ、まだひとりで、六条の遊女宿あそびやど
へゆくほどな勇気もなかった。妄想して、思うらくは──またあの遠藤盛遠でも現れて、六条へ誘ってくれるものなら、そこでもよし。あるいは、行きずりの女でもかまわない。いやいや、月夜狐つきよぎつね
が女に化ば けて来てくれたのでもありがたい。何しろ、身のうちに暴あ
れうめいているものを、宥なだ
め、鎮しず めてくれるものならば、ふと、一瞬とき
の幻覚でもいい。女にふれたい、巡めぐ
りあいたい── と、いう熱病の彼であった。 |