月のいい晩が続いた。野山でも、恋する鹿
だの、野葡萄のぶどう に踊るリスだの、動物たちも月夜の生理に浮かされるというが、清盛もなんとなく、邸に尻がおちつかない。 かかる夜を──
と彼は、弟の経盛を見ては、何か、茶化ちゃか
してやりたくなった。去った母が、残していった古机の横に、小さい灯皿ひざら
を架か けて、もっともらしく読書にばかりふけっているのだ。こいつは、十八にもなって、まだ心に女も求めていないのかしら。つまらぬ奴を弟に持ってしまったもの。──そう、嘆じてやりたく思う。 経盛輩の読書なら、のぞいてみなくても、彼には、およそわかる気がした。 勧学院や大学寮の文庫棚ぶんこだな
には、醍醐朝だいごちょう まえに輸入された宋版そうばん
の儒書じゅしょ が、読み手もなく、久しくムシに蝕く
わせてあった。 それを、だれともなく持ち出して、素読そどく
したり、輪講りんこう したりする風が、近ごろ、若い地下人なかまに見えるとは、父忠盛も、言っていた事である。弟も、かぶれ出したにちがいない。 何があるんだ。論語や、四書の中に。 兄の俺も、観学院では一通りは講義をうけた者だが、こつは、主しゅ
すじに都合がよく、われら地下人や、雑人輩には、うだつのあがらない証文を自分で自分に入れてしまうような学問と見たから、いつも、聴いている顔して、居眠っていたもんだ。 いったい、孔子こうし
なん男に、人間やこの世の中を規定する、そんなえらい資格がどうしてあるのだ。孔子自体が、何を楽しんで、どれほど身がおさまっていったとおうのか。あのころの魯ろ
だの斉せい だのという国には、血を流す喧嘩けんか
もやみ、泥棒も消え、奴隷どれい
もいず、うそつきもいなくなったのなら、話はわかるが、その孔子様からして、盗跖とうせき
という大盗と、理論を戦わし、偽君子ぎくんし
の皮をヒン剥む かれて、説法に出向いた奴があべこべに、まる裸の人間をさらけ出して、二の句もなく、逃げ帰っているではないか。ばかな頭を疲らすなよ。弟。 この、いい月の晩に──だ。 気に食わない事が、もう一つある。大内裏の紫宸殿ししんでん
には、聖賢の御障子おんそうじ
があるそうだな。聖賢の間に座ったら、聖人賢者のように、頭がよくなるとおいお禁厭まじない
なのか、何なのだ。ちょうど、貴さまも、頭の中に、聖賢障子を描えが
いているようなものだ。 ──くだらぬぞ、弟。 わが家は、公卿ではない。公卿に食わせられている武者だ。公卿が、院宣いんぜん
をうけて、おれたに命じれば、俺たちは、たちどころに、憎めない相手でも、敵に取って、矢を弦つる
にかけなかればならない門に飼か
われている身ではないか。 (よせやい、いいかげんに) 清盛は、さっきから、妻戸つまど
の口で、両足を、縁先へ放り出し、上半身だけ室内に入れて、仰向けに寝転んでいた。 そして、まだ秋の蚊うなりもする、うすぐらいすみの壁代かべしろ
を横に、他念のない経盛の、机の姿へ向かって、さんざん、腹のムシャクシャを、腹の中だけで、たたきつけていたのだった。 理由は、父も寝、家人けにん
たちもみな寝たのに、ひとりこの経盛がいつまでも寝ないからである。 ──よいっても、誘っても、一緒に夜遊びに出る奴ではな、むりに寝ろといえば、むくれるにきまっている。小さいくせに、邪魔な存在でならない。この性分の差は、やはり、母ひとつでも、父の血がちがうせいだろうか。 ──などと、思うまいとする思いが、雨漏あまも
りみたいに、胸にシミ出すと、彼は、父へのおそれも、弟への気がねも、今は、何ものでもなく、 「どれ、ちょっと、行って来るか。・・・・月もよし」 わざと、あくび交ま
じりのひとり言ごと を言い放った。そしてそこの縁から、すぐ、露っぽい夜の草履へ、片足をおろしかけた。
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