ほどなく、渡は、戻って来て、縁
の端はし に座し、そこから客たちへ、こう言った。 「春以来、心を込めて、飼こ
うて来た効かい があり、御承知の、武蔵むさし
青毛あお の四歳駒ごま
。秋にのぞんで、ひと際きわ 、俊足しゅんそく
の敏びん をあらわして来たかに見らるる。やがての、仁和寺にんなじ
の行幸みゆき には、心ゆくばかり、駆か
け競きそ うて、春の口惜しさをそそぎ、かたがたとともに、快かい
を叫びたいと存ずる。──まずもって、その青毛が、どのように、良くなったか、御酒興までに、御覧ごらん
ぜられたい」 客は、さすがに、粛しゅく
とした。──渡にとって、それは、名誉と努力を賭か
けた野心的な大仕事と、たれにも気持は分かるからだ。それでは、約束が違うぞと交ま
ぜ返す者もなかった。人びとは、異口同音に、 「それは、ぜひ・・・・」 と、主に倣なら
って、小坪こつぼ (庭)
に面した縁に座を取って居ながれた。 馬を見るには充分なほど、おりふし、秋の夜の月は、昼のように、澄す
み切っていた。 源ノ渡は、かなたの遠い厩うまや
へ向かって、 「ひけよ、青毛を」 と、呼ばわった。 かつ。・・・・かつ・・・・かつ・・・・と、蹄ひづめ
の音が近づいて来る。虫の音が止み、網代垣あじろがき
の萩はぎ が動いた。白珠をまきこぼすような露の音に、そこの柴折しおり
が開かれたと思うと、ひとりの女性が、駒の口輪を把と
って、入って来た。 しずかに、庭面にわも
の真ん中に位置を取り、その女性は、しゃんと、駒を止めた。 「・・・・」 客たちは、息をこらして、呀あ
と、声を出す者もなかった。驚きと、感嘆と、恍惚こうこつ
とだけが、そこにあった。 月の下の、青毛の毛づやは、漆黒しっこく
といっても、濡ぬ れ鴉がらす
といっても、なお言い足りない。 均斉きんせい
の取れた四肢しし 、筋肉きんにく
の見事さ。春とは見違えるばかりうわ背丈ぜい
も育っている。 長い尾毛びもう
は地に触ふ れんばかりである、ただこの名馬にして、人が、凶馬きょうば
の相そう ときらう四白よつじろ
の脚もとが目につくが、これまた、雪を踏んでいるかのように、かえって、美しい。 しかし。── 客たちは、馬を見ない。 縁に居ならぶ人影の声なきひとみは、駒の口前から、静に、こなたへ向かって礼をした女性にばかりそそがれていた。それは、渡の妻、袈裟けさ
にちがいないからである。 彼女は、彼女の良人おっと
がいいふらすほど、そう内気ばかりのはにかみやとも見えなかった。微笑をふくんで、客に一礼したあとは、馬に対して、客を見ない。きっと、馬の珠目じゅもく
(眉間) に向かい合って佇立ちょりつ
し、両手で、口輪をおさえたまま、悍気かんき
のつよい秋の若駒をも、大地にすえて、びくとも、暴あ
れるのは、ゆるさなかった。 月光のせいもあろうが、その横顔の線は、夢殿ゆめどの
の飛鳥造あすかづく りの観音を思わせる。手の指までの真白さ。長やかな黒髪は、青毛の毛づやも見劣るばかりである。たった今まで、召使に交じって、厨の内で、煮焚にた
きや水仕みずし をしていたことは事実であろう。常の袿衣うちぎ
を、やや裾高すそだか にくくし、白と紫のひもを、裳もすそ
に連れて垂れていた。 (・・・・ああ、俺も、妻が持ちたい。どこかに、もうひとり、こんな女性にょしょう
はいないものか) 清盛は、自分の飲み下した唾の音に、思わず、顔をあからめた。頭の中に、瑠璃子るりこ
の顔がすぐ泛う かんだ。六条洞院裏の遊女の寝姿も、一緒に思い出されてくる。彼には、恋の対象すらまだ的確につかめもしていないらしい。恋みたいに考え出すのは、すべて単なる機会であった。──はやく娶もら
えるなら、瑠璃子でも、六条の遊女でも、乃至ないし
また、どこかのどんな女でもいいと思った。 |