〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻
2013/01/22 (火) にい づま づく (二)

酒がまわると、客は、それぞれ個性を露出した。個性はまちまちでも、ときを得ぬ野性の地下人ちげびと たることと、不平の吐け口の見つからない悪童どもであることだけは、一色いっしょく であった。
「おい、主殿あるじどの 。もうそろそろ現れそうなものじゃないか。 らすなよ、余りには」
「なにを? ・・・・」 主の渡は、佐藤義清の前に座って、銚子ちょうし をすすめながら、そら耳に答えたまま、なお義清とむつみつづけていた。
静で、杯盤はいばん も取り乱さず、ひとりつつましやかな客は、佐藤義清だけだった。杯をくち に含みながら、その義清が、主へいうには。── かって上西門院のお歌会うたかい にうかがったおり、袈裟けさ どのの歌も選に入って、よそながら歌の上では、早くから袈裟御前のおん名は存じあげている。人妻となられては、なかなか和歌の道に、かかずらってもいられますまいが、惜しい御才能です。せめて歌の会ぐらいは、せいぜい、出席させてあげてください。おたがい、武弁のともがら に、もっとも欠けているのは、文事ぶんじ を解さぬというよりは、軽視の風が先に立つことです。その点で、武夫ぶふ 文妻ぶんさい は、松に添えて菊を描いたような画趣がしゅ ともいいましょうか、めでたいおちぎ りです。・・・・羨望せんぼう にたえません。連中がああして、 いているのも、理由のないことではありませんよ。ハハハハ・・・・と、真面目な中に、酒興しゅきょう もふくみ、日ごろ以上の親しみを深めて、うち解けているてい なのであった。
そのかん 、ほかの人々は、いよいようるさく、
「また義清が、歌の話ぞよ。あの男が、ものをいうと、とかく、いつも、酒が める」
「──あるじ どの、主どの。それよりは、早く、ほんものを、見せ給え」
く、これへ、お召しあれい。われわれ朋友にも、いちどは、お引き合わせあってしかるべきであろうが」
と、渡の背へ、ほえてやまない。
「さりとは迷惑な。この貧しきおく へ、白拍子しらびょうし でも、呼べといわるる」
「なんの、都の白拍子にも、江口えぐち神崎かんざき遊君きみ たちにも、くら ぶべきはないといわるる御内方おんうちかた を、ちょっと、招かれれば、みな、気がすむというものだ。おかんぞして、こよい、袈裟どのには、チラとも、お顔を見せられぬか」
「、妻が姿を見せぬというおとがめか。アハハハハ・・・・。ゆるされい、ゆるされい。あれは、まったくの内気者うちきもの よ。くりや にばかりいて、水仕みずし をしたり、酒をあたためたり、ひたすら、客人まろうど のお心に染まばやとばかり働いておる。性来、そういう女子おなご なのだ。所詮しょせん 、おのおのの御座ござ ある あかりの前には、 もすわるまい」
「いや、秋の月よりは、厨の月をこそ、われらは見たい。あるじ どのが、召されねば、召さぬもよし──だ。たれぞ、立って、客どもの意をたい し、これへお連れして参られよ」
おうと答えて、おもしろ半分に、ひとりは、よろめき立って、台所へ通う渡り廊下へかかろうとした。主の渡は、追いかけて、見せる見せると、連れもどった。客どもは、興に入って、きっと召されるかと、念を押す。──渡はすこしあらたまって、しかし、自分は武者である。わが妻はまた、白拍子や遊君ではない。武者の妻を御見ぎょけん に入れるのだから、そのようにして、いま、会っていただこう。・・・・しばらくお待ちねがいたいと、客どもをおいて、自身、厨の妻へ、告げに行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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