その年の秋、八月のなかば。 源
ノ渡わたる は、院の武者所のうちでも、同年配のごく親しい友、十名ほどに、状じょう
をまわして、 「何もないが、ささやかに酌く
み分けたい。月見のつもりで来てくれ」 と、自宅へ、招いた。 そういっても、友だち輩ばら
にはわかっていた。──この秋には、天皇、上皇おそろいで、ふたたび仁和寺にんなじ
に行幸みゆき の内儀ないぎ
があり、同日同所において、競馬を覧み
給たも うと、沙汰さた
されている。九月二十三日と、予定の日まで、きまっていた。 そこで、もっと明白なのは、むなしく加茂の春競馬に、例の、青毛あお
に騎乗して、名を成すべかりしを、ふと、その若駒わかごま
の故障から、思い止まって、脾肉ひにく
を喞かこ っていた渡が ──
天高き秋の仁和寺競馬を、千載一遇せんざいいちぐう
のときと、ふたたび手に唾つば
していることである。 「その前祝のつもりだろうよ」 友輩ともばら
は、いいあった。 中には、また。 「いや、吝嗇りんしょく
と思われたくないのさ。ふつう、晴れの日に出る騎者たちは、おのおの、日ごろ信仰する僧家へ行って、阿闍梨あじゃり
や上人たちから、鞭加持むちかじ
をしてもらい、そのあと、親類朋友を集めて、大振舞おおふるまい
をするのが例になっている。・・・・ところが、渡は仏ぎらいだ。勝負は勝負に尽きる。あに、神仏の力をからんやと、よく、院の溜たま
りでも、豪語しているだろう。・・・・で、ムチ加持振舞を、月見と称して招よ
んだにすぎない」 さらに、弥次性やじせい
のある一友は、こうもいう。 「いやいや、あれの愛妻ぶりを知っているか。上西門院の雑仕ぞうし
だった袈裟御前けさごぜん だ。あの不器ぶき
っちょが、よくもあんな美人を射落として、宿の妻にしたかと思うが、そのまた、愛し方も、一通りではない。宿直とのい
に当って、夜も院に詰めている時などは、心は家に行っている。 ──いちど、おれたちにも、拝ませろというと、彼、にやりとして、秘蔵の妻だ、めったには、などとのろけたこともある。しかし、実は、見せたいのだよ、自慢の妻を」 迎える門は、水を打ち、厨くりや
(台所) を浄きよ
めて、気をつかっていたが、やがて、どやどや訪おとず
れる方は、一歩前まで、勝手な放談を楽しみつつやって来た。 しかし、この同年配の若者も、客間に着くと、ほどよく客振りを保って、やがて運ばれて来る折敷おしき
の肴、高坏たかつき 、銚子ちょうし
などを前にしても、酔うまでは、なかなか遠慮めいた風趣ふうしゅ
も示す。 平太清盛もいた。佐藤義清も見えている。 ──が、ひとり、いるべきなのにいない顔が、清盛に思い出された。 遠藤武者盛遠である。なぜ彼は見えぬのか?
──と、清盛は、口へ出しかけたが、出さなかった。ひごろ、院の溜りでも、渡と盛遠とのあいだに、何か、溶けあわないものを感じていたからである。 ひとは、それとも、気づかないが、清盛には、観み
えてならなかった。 盛遠だけは、自分の一身上の秘事を知っている。それがあるので、清盛は、つい、盛遠の挙止言動きょしげんどう
に、ひとより細かい眼をそそぐようになっていた。彼の、粗暴で矯激きょうげき
な性情と、ゆたかなる学才とが、のべつ、一個の中に取っ組んいて、盛遠自身、自分をもてあましているような風が、いつも、はらはらながめられる。 わかて、その盛遠が、渡と、同席の時などは、ふと、盛遠の眼底に、卑屈めいた、実に小心者のするような、いやな光が、うごめいたりすることがある。そのくせ口では、剛愎ごうふく
なことをいう男が、清盛には、ふしぎに堪えないおりがななあった。だが、近ごろの盛遠の眼のにごりや、頬骨ほおぼね
のとがりかたから察して、多分、過度な勉学のため、神経病にでもかかったか、あるいは、酒の飲みすぎのためか──などとひとり答えをつけていたものである。だから、ひょっとしたら、主の渡も、好まぬ人物として、あえて招かなかったのかも知れない。 清盛は、そう考えて、自分にしても、余り思い出したくない男と、触れないことに、きめていた。 |