〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/21 (月) しゅく  はい (四)

忠盛は、おそ く、鳥羽院を退 がった。
いつも、帰宅するころには、やしきの郎党、木工助もくのすけ 家貞が、かならず馬をひいて、迎えに来ているのが常なので、武者所の供待ともまち をのぞくと、清盛が、こま をひかえて、たたずんでいた。
「木工助は?」 と、たずねると、
「参っておりましたが、こよいは、平太がお口輪くちわ って帰るからと ──先に、やしきへ、帰しました」 と、清盛は、答えながら、父の前へ、あぶみを、すすめた。
「ああそうか。おまえの、疲れたろうに、待っていてくれたのか」
忠盛は、かろく馬上の人となった。上皇のご機嫌もよかったにちがいないが、父のおもて も、さわやかに見えた。清盛は、馬の口輪をつかんで歩きながら、星空の中の父を仰いで、なんとなく、胸が安らいだ。
言い出そうか、いうまいか。
清盛は、途々みちみち 、迷った。──告げるkとは告げて、父の不快をぬぐおうと、わざと迎えの郎党を帰し、こうして、父と二人だけの帰路を待っていたのではあるが──。
(もしか、昼のことを、父が、気づいていないなら、なまじ、お聞かせしない方がよくないか)
そうも、思うし、
(いや、父はたしかに、遠くから見ていたふうだ。何も、言わないのは、父の性格だから、内心の寂寥せきりょう と不快さは、人一倍なものがあとう。この父を、ふたたび暗い人にさせてはすまぬ)
こうも、考え、とつこうつ、駒をひくよりは、ひかれて歩く彼であったが、やがて、今出川も近づいてから、思い切って、馬上を仰いだ。
「父上。── 父上は、知っていましたか。今日、加茂の競馬へ、もとの母も、来ていたのを」
「うム、そうらしいな」
「会いたくもなく思いましたが、実は、余り招くので、ちょっと、母の席へ行きましたよ」
「そうか・・・・」 と、忠盛は、スガ目を細めて、清盛を見おろした。決して、わるい顔つきではない。清盛は、いいわけみたいに、言い続けた。
「あいかわらず、若々しゅうて、まるで、宮の上臈じょうろう か、更衣こうい みたいに、おめかししておりました。けれど、太平には、涙も出てまいりません。この人が母だという気がちっともして来ないのです」
「ふム。・・・・それは余よくないことだな。平太」
「え、どうしてです。父上」
「世に、母のない子ほど、あわれなのはない。いわんや、眼の前の母を、しいて母として、見まいとする、おまえの心は、不愍ふびん すぎる」
「いえ、わたくしは、父上の子です。母など、なければ、なくもよしです」
「・・・・それはちがう」 馬上の影は、静に、顔を振って── 「おまえの心を、畸形きけい にさせたのは、この忠盛に、罪がある。長い間、冷たい家庭で、父と母との、ののしりあいばかり見せたからなあ・・・・。子であるおまえに、大切な母を、そのようにみにく いものと思い込ませたのは、大人おとな の罪じゃよ。 ──自然な人間の子とは、決して、そうしたものではない。平太よ。素直になれよ。母に会いたければ、いつでも行って、会うがよい」
「でも、あんな女、母とは、どうしても、慕われません。良人おっと へは、不貞だし、子どもへの、愛もないし、自分の欲ばかりしか考えない・・・・」
「わしの口真似くちまね などしてはいかんよ。 ── おまえが、あのひとに、そんな口をきく理由はない。おまえと彼女あれ とは、どこまでも、母と子であることだ。・・・・な。・・・・愛情はすべてを越えた愛情である時に、ほんとの美しさを持つ。冷たい母子おやこ も、あたたかい母子となってくる」
清盛は、黙った。父の心は、子の彼のとって、まだまだ咀嚼そしゃく するにはむずかしい。深いのやら、あるいは、未練なのやら、分かるような気もするし、まったく分からないようにも思う。
いずれにせよ、屋敷の前へ、もう来ていた。木工助家貞、平六家長、ほかの郎党たちも、 れたりといえど大門を開き、貧しくはあれど小坪こつぼ や式台を清掃して、明々あかあか と、 もかかげて、待ち迎えていてくれる。
こういう緊密な生活ぶり、調和と清潔さは、つい百日前までは、見られなかった家である。なんで去った母を惜しもうや。決して、さび しいとは思わない。なぜ父は、それを信じてくれないのだろう。清盛は、そう思った。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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