狂噪
と、草ぼこりの中に、陽ひ もうすづいて、その日の競馬も、終わりを告げた。 天皇、上皇は御座を立たれた。妃嬪ひひん
、百官も、こぞって、おあとに従い、加茂の神前へ、歩ほ
を運んだ。 奏楽がおこり、奉幣ほうへい
の式があって、やがて、幄舎あくしゃ
のうちの、賜餐しさん となる。 この日の十番競馬や、十列とつら
の競馬に勝った騎者たちに、祝杯があげられ、親しく、おことばがかけられた。 しかし、本当の祝杯は、秋、あらためて、宮廷で行われるのが例である。 その儀式を、
「負物貢まけものみつ ぎの式」
といい、相互の間に賭けられている “負け物” ──沙金さきん
、織物、香料などの多額な品を── 負け方から、勝ち方の組へたいして、いんぎん、敗者の例を尽くして、贈呈するのが、約束となっているのだ。 もちろん、天皇、上皇、臨御のまえで、伶人れいじん
たちの奏楽のもとに、大々的に、勝敗の差別を明らかにする儀式であり、敗者から勝者への、負け物贈りのことが終わると、あとは、勝ち方の凱歌がいか
によって、一同、うちとけた酒宴さかもり
となるのである。無礼講なので、陛下の前でも、いろいろな隠し芸や、珍趣向の余興をこらす者も出るのであったが、中には、勝負をこのように平和化する作用に溶けきれず、いつまでも、残念ばなしにこだわって、酒乱を演じたあげく、大内裏の小庭へ出て、腹を切って死んでしまったりするような気の小ち
さい騎者もあったりした。 栄枯盛衰は天地のならい、栄々盛々はあり得ない事。勝は負ける日の初め、負けるはやがて勝つ日の初め ── と、殿上人てんじょうびと
の輪廻観りんねかんあ のそこには、やはり仏教が働いていた。だから負け方の騎者が、小庭で腹を切ったという事件にも、かれらは、なんの驚愕きょうがく
もあらわさなかった。ある者は、腹を抱えて笑ったりした。 仏教のいう宇宙観や輪廻りんね
の哲理も、かれらはそれを、自己の上には、ゆめ、考えてみなかった。かれら藤原氏の門流や末葉まつよう
たちは、祖々以来、宮廷を中心に、史上例外な、栄々盛々の三世紀を遂げて来ているからだった。いまも、余恵よけい
にうけている華冠薫袖かかんくんしゅう
の身を、まだ不足なぐらいに思い馴な
れているのである。きびしい、敗者の運命などには、出会ったことはない族党なのだ。勝敗の烈しさ、つらさ、仮借かしゃく
なさ、そんな運命は、理念では知っていても、実感には、分かるわけもないのだった。──ゆえに、彼らの知る勝負事は、すべて、遊戯のほかのものではない。敗者の痛涙も、勝者の狂喜も、ひちしく、一場の泡沫ほうまつ
と見、あれもおかし、これもおかし、なべて酒杯さかずき
のうちに溶と いて、飲まんかな人生。楽しまずしてなんの人生やある
──というのである。そして、つねにかならず、自己を傍観者の桟敷におくことを忘れない。 そういう意味だけの一日。今日の五月五日も、みな、生き身の歓かん
をつくして暮れ ── ほどなく、加茂の葉桜のうえに、夕月を見るころ、主上の鳳輦ほうれん
も、上皇の御車も、れきろくと、群臣の車馬をしたがえて、還御となった。 |