〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/19 (土) しゅく  はい (一)

「おかしな子よの・・・・」 と、母の泰子は、もじもじしている清盛を笑った── 「なにを、羞恥はにか ましゅうしていやる。わが身は、そなたの母ではないか。もそっと、寄って来たがよい」
母なる者でなければ決して現し得ない愛情の波紋が、そういって、手招く人のほほ笑みにゆらいだ。
次の瞬間、清盛は、何かを、飛び越えるような心理で、母のそばへ、寄っていった。寄ってみれば、なんの不自由もない母子おやこ を感じながらも──なお彼のひとみは、群集をはばかるように、どこか落着ききれない色をひそめていた。
泰子は、彼のその容子ようす を、すぐに、そばの瑠璃子るりこ に結び付けて、見比べた。ある性期の年齢を経た女というものは、若い男女のはにかみを前に置いて、さまざまな角度からながめたり、心を読んだりすることに、ひそかな興味を持つものである。泰子は、彼を目のすみに いて、瑠璃子の耳へ、くち をよせた。
「わたくしの、息子ですのよ。・・・・いつか、姫にも、お話したことがあるでしょう。あの、平太清盛です」
──それからまた、清盛へは、ふと、こんなおさな 物語を、して聞かせた。
「そなたも、三つ四つのころには、中御門家なかみかどけ で養われていたことがあるのですよ。 ──ちょうど、いまの姫の身の上みたいに」
そこまで近づけてもらっても、二人は、何の話も出来なかった。清盛が胸の動悸どうき をありあり顔に染めているのを見て、瑠璃子も、理由なく面ばぱっとあか らめてしまった。そして、深窓しんそう処女おとめ には、あまりに強烈過ぎるものへむか ったように、まばゆ げな眼をそらして、ひとにも分かるような吐息といき をついた。
清盛は、たちまち例のむかつきを覚えた。この母に美しさと、空々しさに接すると、やたらに、つめよって、 きただしたくなるのである。──上皇の子なのか、悪僧の子なのか。俺の男親は、いったいどっちがほんとなのかと。
それは、真実の父を知りたいとする抑え難い本能でもあるが、より以上、母の貞操のあり方に、たまらない不快と憎しみをもつからであった。世の中の無数な売女や淫婦いんぷ を越えて、この母ひとりが、きたな らしい女に思えてならないのである。
今の世の習慣からいえば、貴族社旗でも、下層民でも、女の貞操は、ただ男のためにあって、女のための貞操ではなくなっている。一夫多妻は、あたりまえのことだし、物の代償に、妻を他の男へ与えたり、貴人の一夜の饗応きょうおう に、未婚の女子をささげることなど、むしろ当然みたいに思われている。── その代わり、女性もまた、 けたる女の身を、放恣ほうし快楽けらく し、女の一生を、ひたすら、自由な性愛の野に遊ばせて、ひとりの恋人や、良人おっと や、乳のみ兒の、ありなしなどに、かえり みていない風潮ふうちょう も強い。──それも男が女をこうさせているのだというように見せかけて── むしろ時代の自由さを、女の方が、逆利用しているほどにも見えるくらいである。
だのに、なぜ清盛は、母にのみ、女の高い貞操を標準として、憎むのだろうか。そんな無理を──時代的に少ない例を──母の場合にだけ固執してみたところで仕方あるまいに──と、これは彼にも、分かっていない事ではない。けれど、子どもは母を、 いてでも、きよ らかな女性、気高い女性、純なる愛の権化ごんげ とも、見たいのであった。いや、乳房にすがって、幼い上目づかいに見まもってきた母なれう人は、たしかに、そう見えていたのである。長じて、ものまな びし始めてからでも、たれも母を、汚い女だとは、教えもしなかった。それが、卒然そつぜん として、一個の、みだ らな肉塊でしかなかったと分かった時、清盛は、腹が立った。母の不潔が、自分の不潔に思われた。それまで、貧しくも、伊勢平氏の父と、清らな母の血とをもって、自分の中に脈搏みゃくう っていると信じていたものが、急に、どろどろな宿命の物質みたいに思われてきたのである。
あの遠藤盛遠から、初めて、母の実体を聞かされた晩に、彼は、惜しみもなく、遊女宿あそびやど の女へ、二十歳はたち童貞どうてい を、うっちゃるように、くれてしまった。自己へのさげすみは、母へのさげすみであった。あれからの彼は、自分の血と肉に、こんなもの──という軽蔑けいべつ をつねに持っている。
それが、青春の放埓ほうらつ へむかって、いつでも、崩れんとしているのを、何かに、あやうくささ えられているだけの彼にすぎない。父ならぬ父忠盛の愛が支柱であった。あのスガ目の人の大愛と長い忍苦を考えると、彼は、素直に返らずにはいられなくなる。その人を真実の父親と思い、よい子になって、身も大切に持とうと思う。
・・・・が、母を見ると、気持は、たちまち、逆になった。このむくむくとたえず頭をもたげたがる異端な血こそ、彼が母からもらった唯一のものかも知れなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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