競馬の番数は、すすんでいた。 午
となり、馬場の土は、乾いて、埃ほこり
がたかい。 「ぼんやりと、どうなすった?・・・・渡わたる
どの」 清盛は、武者溜むしゃだま
りとなっている幄舎あくしゃ の横で、ふと、源ノ渡を見かけて、そうたずねた 渡が、あれほど熱心に、今日を機会としていたのに、どうしたことか、武蔵むさし
青毛あお の、例の四白よつじろ
の四歳駒は、出馬の番組に、書かれていない。 今朝から、清盛は、気になって、見かけたら、彼に問いただそうと思っていたところなのだ。──が、渡は、友にきかれるのも、辛つら
そうだった。悄然しょうぜん として、いうのである。 「今朝だ。・・・・まだ夜も明けきらぬ、暁あかつき
と思え。今日の勝負のため、人知れず、強目つよめ
な地乗じのり をしておこうと考えて、あの青毛を、そっとここの厩うまや
からひき出したのが悪かった。・・・・運だな、まったく、運の悪さよ」 「何か、あったか」 「前日、幄舎あくしゃ
を建てた工匠たくみ どもが、釘くぎ
をこぼしていたものとみえ、釘を踏み抜いてしまったのだ。おれでも踏み抜けばよかったのに・・・・あの青毛あお
が、後脚ともあし の右の蹄ひづめ
で」 「ふうむ。・・・・それでか」 と、清盛はすぐ、凶馬きょうば
の相そう を思い出した。──
が、また迷信と嗤わら うにちがいない。この男には、いえないのだ。清盛は、心にもない慰めをいった。 「そう落胆し給うな。秋にはまた、神泉苑しんせんえん
か、仁和寺にんなじ か、どこかで、必ず催されよう。どこへ出しても、勝てる名馬。何も、功をあせることはない」 「うム。秋には、この無念を、雪そそ
がずに措お かんよ」 「はははは。無念などと・・・・あははは、そんなに、無念がらなくてもよいわさ。何か、人と、賭物かけもの
でもかけたのか」 「いや、意地だ。だれもかも、四白よつじろ
は凶馬だといいおるから」 「鞭加持むちかじ
は、やったか?」 「鞭加持。そんなことは、俺はやらん。あれも、滑稽こっけい
きわまる迷信だ。坊主に、鞭の加持祈祷かじきとう
をしてもらって、それで勝てると思って競馬へ臨む騎者たちの気が知れない。・・・・そういう愚ぐ
まいな者の眼をさましてやろうと思っていたが」 清盛は、彼の言葉の途中から、ふと、遠くへ、眼をそらしてしまった。いま、太鼓の合図と一緒に、馬出しから、ぱっと、埃ほこり
をあげて駆け出した二騎の勝負木しょうぶぎ
の方へではなく──反対な桟敷さじき
の一角を見上げてである 「・・・・?」 無数の男女の間に、母の姿が見えたのである。母の泰子やすこ
は、そのまわりにいるどんな臈ろう
たけた女性たちよりも、断然、美しく、そして華やかに粧よそお
っていた。 人々の眼はみな長い馬場の果てへ吸す
いつけられている。──。が、母の眼は、こっちを見ていた。清盛の眼と、結ぶ付いた。母は、眼で自分を呼んでいる・・・・が、清盛は、にらみかえした。母が今出川の家を去ったあの日の眼で──清盛はきつくにらみ返していた。 泰子の眼は笑っている。彼女にも母性らしいものはあるのだ。子供のすねるのを可笑おか
しがるように、なおも眼でさし招いている・・・・そして、そばに連れている瑠璃子に何か言っていた。 わあっと、そのとき、どよめきが揚がった。勝負木の下では、勝ち鼓つづみ
の音ね といっしょに、あいずの紅あか
い旗が振られている。院の紅組みが勝ったのである。上皇をめぐる凱歌がいか
が高い。 「や。・・・・じゃあ、また、後で」 清盛は、しれを機しお
に、渡と別れて、桟敷の方へ、人波をわけて行った。泰子のひとみは、彼の姿を、手繰たぐ
り寄せるように、見まもっている。──清盛は、そばまでは、寄らなかった。 (── 来たの。平太) 彼女は、そう言わないばかりな顔つきである。本能は、母を慕い、感情は、反抗と憎にく
みを込めて、ねめつけて来る彼女の子だった。けれど、清盛のその眸め
は、とたんに、羞恥はにか みと変じ出した。頬ほお
も、大きな耳たぶも、急に真っ赤か
にさせてしまった。特に異性を意識する時、彼がよくやる正直な戸惑いなのだ。母は決して、異性ではない。母の美しさは、彼には、無価値である。憎みでこそあれ、無価値である。
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