〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/19 (土) 好 色 法 皇 (三)

競馬の番数は、すすんでいた。
ひる となり、馬場の土は、乾いて、ほこり がたかい。
「ぼんやりと、どうなすった?・・・・わたる どの」
清盛は、武者溜むしゃだま りとなっている幄舎あくしゃ の横で、ふと、源ノ渡を見かけて、そうたずねた
渡が、あれほど熱心に、今日を機会としていたのに、どうしたことか、武蔵むさし 青毛あお の、例の四白よつじろ の四歳駒は、出馬の番組に、書かれていない。
今朝から、清盛は、気になって、見かけたら、彼に問いただそうと思っていたところなのだ。──が、渡は、友にきかれるのも、つら そうだった。悄然しょうぜん として、いうのである。
「今朝だ。・・・・まだ夜も明けきらぬ、あかつき と思え。今日の勝負のため、人知れず、強目つよめ地乗じのり をしておこうと考えて、あの青毛を、そっとここのうまや からひき出したのが悪かった。・・・・運だな、まったく、運の悪さよ」
「何か、あったか」
「前日、幄舎あくしゃ を建てた工匠たくみ どもが、くぎ をこぼしていたものとみえ、釘を踏み抜いてしまったのだ。おれでも踏み抜けばよかったのに・・・・あの青毛あお が、後脚ともあし の右のひづめ で」
「ふうむ。・・・・それでか」 と、清盛はすぐ、凶馬きょうばそう を思い出した。── が、また迷信とわら うにちがいない。この男には、いえないのだ。清盛は、心にもない慰めをいった。
「そう落胆し給うな。秋にはまた、神泉苑しんせんえん か、仁和寺にんなじ か、どこかで、必ず催されよう。どこへ出しても、勝てる名馬。何も、功をあせることはない」
「うム。秋には、この無念を、そそ がずに かんよ」
「はははは。無念などと・・・・あははは、そんなに、無念がらなくてもよいわさ。何か、人と、賭物かけもの でもかけたのか」
「いや、意地だ。だれもかも、四白よつじろ は凶馬だといいおるから」
鞭加持むちかじ は、やったか?」
「鞭加持。そんなことは、俺はやらん。あれも、滑稽こっけい きわまる迷信だ。坊主に、鞭の加持祈祷かじきとう をしてもらって、それで勝てると思って競馬へ臨む騎者たちの気が知れない。・・・・そういう まいな者の眼をさましてやろうと思っていたが」
清盛は、彼の言葉の途中から、ふと、遠くへ、眼をそらしてしまった。いま、太鼓の合図と一緒に、馬出しから、ぱっと、ほこり をあげて駆け出した二騎の勝負木しょうぶぎ の方へではなく──反対な桟敷さじき の一角を見上げてである
「・・・・?」
無数の男女の間に、母の姿が見えたのである。母の泰子やすこ は、そのまわりにいるどんなろう たけた女性たちよりも、断然、美しく、そして華やかによそお っていた。
人々の眼はみな長い馬場の果てへ いつけられている。──。が、母の眼は、こっちを見ていた。清盛の眼と、結ぶ付いた。母は、眼で自分を呼んでいる・・・・が、清盛は、にらみかえした。母が今出川の家を去ったあの日の眼で──清盛はきつくにらみ返していた。
泰子の眼は笑っている。彼女にも母性らしいものはあるのだ。子供のすねるのを可笑おか しがるように、なおも眼でさし招いている・・・・そして、そばに連れている瑠璃子に何か言っていた。
わあっと、そのとき、どよめきが揚がった。勝負木の下では、勝ちつづみ といっしょに、あいずのあか い旗が振られている。院の紅組みが勝ったのである。上皇をめぐる凱歌がいか が高い。
「や。・・・・じゃあ、また、後で」
清盛は、しれをしお に、渡と別れて、桟敷の方へ、人波をわけて行った。泰子のひとみは、彼の姿を、手繰たぐ り寄せるように、見まもっている。──清盛は、そばまでは、寄らなかった。
(── 来たの。平太)
彼女は、そう言わないばかりな顔つきである。本能は、母を慕い、感情は、反抗とにく みを込めて、ねめつけて来る彼女の子だった。けれど、清盛のその は、とたんに、羞恥はにか みと変じ出した。ほお も、大きな耳たぶも、急に真っ にさせてしまった。特に異性を意識する時、彼がよくやる正直な戸惑いなのだ。母は決して、異性ではない。母の美しさは、彼には、無価値である。憎みでこそあれ、無価値である。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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