〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/19 (土) 好 色 法 皇 (二)

ことは、ときをさかのぼるし、余りに、宮中きゅうちゅう 閨門けいもん の秘を語って、いたずらな奇を好むには似るが── ここに語らざるを得ない不幸な事実があった。
鳥羽、崇コすとく の父子のおん仲にわだかまっているある冷ややかな感情こそは、すでに久しいものである。それはやがて、保元、平治の大乱を呼び起こしたものだった。ひいては、庶民生活に、長い戦禍の苦しみを与えたのみか、崇コ、崩ずるまでの、さん として、鬼気きき読史どくし の眼をおおわしめるような生涯の御宿命をも、すでに、このとき約していたものであるから、語るを避けるわけにもゆかない。
崇コ、おん名は顕仁あきひと 、鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、おん母は、大納言公実きんざね のむすめ、藤原ふじわら 璋子しょうこ と申される。
ところで。── ここでまた、かの祗園女御ぎおんのにょご を、平ノ忠盛へ与えられた白河上皇 (後、法皇) をひきあいに出さねばならないことになる。
藤原璋子は、幼いころから、白河法皇に養われていた。法皇が、璋子を可愛がられたことは、一通りではない。その親寵狎愛しんちょうこうあい の様は、たれの目にも、ただこの美少女を可憐かれん とするものいとは見えなかった。わけて、その道にかけては、なみなみならぬ好色のお聞こえもある法王のことなので、院中かくれもなき風流譚ふうりゅうたん となっていたのである。
しかるに、永久五年、璋子は、鳥羽天皇の女御にょご となり、ひいて元永元年、中宮ちゅうぐう に立たれたが、その後も、法皇は、おすきをあらためるふうがなく、鳥羽のおん目をかすめては、璋子を寵愛ちょうあい されていた。ために、おりおり、物議のたねにもなり、鳥羽天皇のお心も、ついぞ解けたことはなかったのである。やがて、璋子は皇太子顕仁を生んだが、御産殿おんうぶどの几帳きちょう からもれた呱々ここ の声にも、天皇のおんまゆ には何の御表情もなかったという。
(顕仁は、わが子ではない。白河の御子みこ じゃろ)
鳥羽は、御在位中にも、後、御位みくらい をゆずって、院へ移られてからも、公然と、左右に言って、はばからなかった。
今はさき の上皇白河ではあるが、白河に致されたそも一 が、よほど御青年時代を暗澹あんたん たるものにし、いとも口惜しい、おん悩みであったには違いなく、いまなお、心の古傷ふるきず のふといたむときには、
(崇コは、白河の子じゃよ。身が生ませた子ではない・・・・) と、すぐ仰っしゃる。
当然、この怨恨えんこん めいた上皇の口ぐせは、すぐ天皇のお耳にはいった。崇コも、おもしろからず思われて、感情にむくゆるに感情の言をもってされた。── それが、その通りでなく、 をかけ、誇張されて、朝廷と院の間を、たえず刺激しあっている。
刺激は対立を育てる。
対立は、対立あるによって、生きる道と、成功とを妄信もうしん する一部の人間を、当然、培養ばいよう してゆく。
朝廷で疎外そがい された者は、上皇のもとへ走って びへつらい、上皇に怒られた者は、天皇にひざまづいて、あわ れみを、訴える。──それは、危険な、火事の火の粉にも似た飛び いといってよい。
──だが、それは、なんと風雅みやび な文化的表現につつまれて、そんなことがある世かと、怪訝けげん なうそみたいに、覆い隠されているではないか。たとえば、今日、加茂競馬の庭をうずめているかすに のような群集を見わたしてもそうである。かんむり には、挿頭花かざし を付け、藤花ふじかお りをたもとに垂れ、おもて に、女のような粉黛ふんたい をなすくって、わいわい言っている公卿朝臣たちの──その何分の一かの人間は、要するに、危険なる次代の風雲に必要とされている火の粉なのだ。火の粉自身は、それと知らない。ただ、みずからのために、みずからの生存と成功の道はそこにありとして、ひそかに、動いているのにすぎない。
「あ、上皇が、お笑いをふくまれた」
みかど が、お立ち遊ばした。興味深げに仰がれる」
公卿百官は、競馬も見ているが、天皇と院の御気色みけしき には、のべつ気をつかっている。
このような敏感が、どうして、天皇のお心と、上皇のお胸のうちとに、永劫えいごう 、解け合わないでいる父子にして父子に非ざる感情を、見逃しているものではない。

※読史
史書を読むこと。 「とくし」 とも。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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