ことは、ときをさかのぼるし、余りに、宮中
閨門けいもん の秘を語って、いたずらな奇を好むには似るが──
ここに語らざるを得ない不幸な事実があった。 鳥羽、崇コすとく
の父子のおん仲にわだかまっているある冷ややかな感情こそは、すでに久しいものである。それはやがて、保元、平治の大乱を呼び起こしたものだった。ひいては、庶民生活に、長い戦禍の苦しみを与えたのみか、崇コ、崩ずるまでの、惨さん
として、鬼気きき 、読史どくし
の眼をおおわしめるような生涯の御宿命をも、すでに、このとき約していたものであるから、語るを避けるわけにもゆかない。 崇コ、おん名は顕仁あきひと
、鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、おん母は、大納言公実きんざね
のむすめ、藤原ふじわら 璋子しょうこ
と申される。 ところで。── ここでまた、かの祗園女御ぎおんのにょご
を、平ノ忠盛へ与えられた白河上皇 (後、法皇) をひきあいに出さねばならないことになる。 藤原璋子は、幼いころから、白河法皇に養われていた。法皇が、璋子を可愛がられたことは、一通りではない。その親寵狎愛しんちょうこうあい
の様は、たれの目にも、ただこの美少女を可憐かれん
とするものいとは見えなかった。わけて、その道にかけては、なみなみならぬ好色のお聞こえもある法王のことなので、院中かくれもなき風流譚ふうりゅうたん
となっていたのである。 しかるに、永久五年、璋子は、鳥羽天皇の女御にょご
となり、ひいて元永元年、中宮ちゅうぐう
に立たれたが、その後も、法皇は、おすきをあらためるふうがなく、鳥羽のおん目をかすめては、璋子を寵愛ちょうあい
されていた。ために、おりおり、物議のたねにもなり、鳥羽天皇のお心も、ついぞ解けたことはなかったのである。やがて、璋子は皇太子顕仁を生んだが、御産殿おんうぶどの
の几帳きちょう からもれた呱々ここ
の声にも、天皇のおん眉まゆ には何の御表情もなかったという。 (顕仁は、わが子ではない。白河の御子みこ
じゃろ) 鳥羽は、御在位中にも、後、御位みくらい
をゆずって、院へ移られてからも、公然と、左右に言って、はばからなかった。 今は亡な
き前さき の上皇白河ではあるが、白河に致されたそも一事じ
が、よほど御青年時代を暗澹あんたん
たるものにし、いとも口惜しい、おん悩みであったには違いなく、いまなお、心の古傷ふるきず
のふといたむときには、 (崇コは、白河の子じゃよ。身が生ませた子ではない・・・・) と、すぐ仰っしゃる。 当然、この怨恨えんこん
めいた上皇の口ぐせは、すぐ天皇のお耳にはいった。崇コも、おもしろからず思われて、感情にむくゆるに感情の言をもってされた。── それが、その通りでなく、輪わ
をかけ、誇張されて、朝廷と院の間を、たえず刺激しあっている。 刺激は対立を育てる。 対立は、対立あるによって、生きる道と、成功とを妄信もうしん
する一部の人間を、当然、培養ばいよう
してゆく。 朝廷で疎外そがい
された者は、上皇のもとへ走って媚こ
びへつらい、上皇に怒られた者は、天皇にひざまづいて、憐あわ
れみを、訴える。──それは、危険な、火事の火の粉にも似た飛び交か
いといってよい。 ──だが、それは、なんと風雅みやび
な文化的表現につつまれて、そんなことがある世かと、怪訝けげん
なうそみたいに、覆い隠されているではないか。たとえば、今日、加茂競馬の庭をうずめている霞かすに
のような群集を見わたしてもそうである。冠かんむり
には、挿頭花かざし を付け、藤花ふじ
の薫かお りをたもとに垂れ、面おもて
に、女のような粉黛ふんたい をなすくって、わいわい言っている公卿朝臣たちの──その何分の一かの人間は、要するに、危険なる次代の風雲に必要とされている火の粉なのだ。火の粉自身は、それと知らない。ただ、みずからのために、みずからの生存と成功の道はそこにありとして、ひそかに、動いているのにすぎない。 「あ、上皇が、お笑いをふくまれた」 「帝みかど
が、お立ち遊ばした。興味深げに仰がれる」 公卿百官は、競馬も見ているが、天皇と院の御気色みけしき
には、のべつ気をつかっている。 このような敏感が、どうして、天皇のお心と、上皇のお胸のうちとに、永劫えいごう
、解け合わないでいる父子にして父子に非ざる感情を、見逃しているものではない。 |