〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/19 (土) 好 色 法 皇 (一)

いま、 名簿めいぼ の奏上式が、終わったところである。
天皇は、玉座に、おきさき の藤原聖子しょうこ とならんで、あかるいお顔を見せておられた。
崇コすとく と申し上げ、まだ御十九の、青春の天皇であった。
鳥羽上皇も、臨御されている。上皇、女御をのぞくほかは、親王と諸卿群臣も、式のあいだ、みな立列りゅうれつ していたが、終わると、おもいおもいに、桟敷さじき の座につき、今日の出走馬の判断や、騎者たちの評に、ざわめいていた。
ほかに、たくさんな幄舎あくしゃ があり、幕囲まくがこ いが見え、そこには、右馬寮、左馬寮の職員やら、雅楽部ががくぶ伶人れいじん やら、また、落馬事故や、急病人の為に、典医寮てんいりょう薬師くすし たちまで、出張していた。
そよ風のたびに、加茂の宮の、青葉若葉の葉裏はうら が光る──
清涼な風に乗って、伶人たちの奏楽が、万余の群衆の上をながれた。馬場の青葉や埒門らちもん (柵の出入口)のぼり の近くには、今日を れと競うたくさんな馬が、しきりに、悍気かんき って、馬丁たちを困らせている。馬は、音楽が好きなのである。決して、いたずらに暴れようというのではない。
時々おかしな光景が、馬と馬丁との間に演じられる。口輪くちわ からふり飛ばされて、しりもちをついたり、また空走からばし(試走) こま が、やんごとなき御座の正面で、ゆうゆうと尿いばり をしたりすることである。
こんな時、天皇も、御微笑されたり、お妃も、女官たちも、 みこぼれて、ときならぬ百花爛漫の雲が らぐ。 にや、雲の上といい、九重ここのえ大宮人おおみやびと というのも、誇張ではない。とりわけ、鳥羽上皇の御座をめぐるあたりの諸公卿は、きわ だって、華やかなよそお いにみえた。
これは、上皇が、おこの みによるものか、あるいは、側近から生じた流行かわからないが、とにかく鳥羽院を中心として、近年、妃嬪ひひん や公卿の服飾が、華奢かしゃ になってきたことは、非常なものである。
烏帽子のかたちにも、衣服の色にも、洗練された神経が見られ、強装束こわしょうぞく という一種の風をつくったのも、鳥羽院からの流行であり、また、男性が、おもて粉黛ふんたい をほどこしたり、たもとこう めるなども、この院からの時粧じしょう である。
しかし、流行のたん はここからでも、それを欲する時好じこう の素地は一般にあった。朝廷方でも、みな時好にならい、男でも、薄化粧して、まゆ をかき、紅さえほお いている若公卿が えて来ている。
しかも、今日は、加茂の晴れの日。われ見よがしに盛装を競い合っていた。冠のおいかけに、ふじ の花をかざし、ふんぷんたる香いに風を染み、紫のさざ波たてている一群もある。
だが、見方をかえれば、時粧や流行の競争も、院と朝廷との、対立意識のあらわれといえないこともない。
今日の競馬では、あきらかに、その対立が番組の興味だったが、もうひとつ、深い所に、何かがある。覆いがたい対立が秘せられている。
天皇と、上皇との、お心のうちにである。
こう御座を並べておわしながら、父上皇と子の天皇のおん仲は、なんとなく、冷ややかに仰がれた。めったに、ことばもお わしにならない。よそよそしく、しらじらしく、二つの政府の象徴が並んでいるだけにしか思えなかった。
※妃嬪
天子のそばにつきそう女性。皇后の次が妃、妃の次が嬪。転じて、身分の高い宮中の女官のこと。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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