ゆうべも、瑠璃子は、東の対ノ屋へ、泊ったらしい。 けさ、気づいて、家成は、たちどころに、不快になった。 室に、菖蒲
の花を挿い け、冠台かんむりだい
に、造花のついたかずら冠を載の
せて── せっかく菖蒲酒しょうぶざけ
をともに祝おうと、土杯かわらけ
までそろえたのに、召使を見にやらせれば、さっきから、泰子やすこ
とふたりで、長々と、湯殿にはいっているという。 「いまに見い、姪も、朱に染まって、あんな女に、成り終わろうて」 ひとのせいみたいに、彼は、妻へ向かって、ぶつくさいった。 だが、やがて、五月五日の碧あお
い空と陽ひ を大廂おおひさし
の外に仰ぐと、 「節句じゃ、不機嫌は、やめよう」 と愚をさとって、 「装束を出せ、そろそろ、時刻であろうが」 と、ものうげに、腰を立てた。 加茂の競馬は、今日であった。ちまたは、人出で、熱鬧ねっとう
をえがいているにちがいない。 家成は、毎年の例で、競馬がすんだあとの祭典係りの一員として、列に立つことになっている。──仮病けびょう
も考えたが、そうもなるまいと、思い直して、束帯そくたい
を着、華冠はなかんむり を、頭にのせた。そしてあごを上げて、妻に紐を結ばせながら、いいつけた。 「牛車くるま
をひけい。新しい方の牛車じゃぞ」 召使は、かしこまって、すぐ雑色ぞうしき
部屋へ、支度を命じに走った。 ところが、新調の美しい牛車の方は、すでに、泰子と瑠璃子が、相乗りで、ひと足先に、乗って出てしまったということであった。 「あな、たわけ!」 家成は、ヘイライどもを、痛罵つうば
した。──なんで、新調の方を出したのか。ひと言こと
、自分の耳に入れないのか。瑠璃子も瑠璃子である。いまは、あの姫までが、まるで叔父叔母をわすれている。養家の恩にそむいてまで、あんな宿借やどか
り女の偽態ぎたい の愛に騙たぶら
かされてしまうものであろうか。──家成は情けなくもなるし、腹が立ってならなかった。が、ぜひなく、ふだんの古車ふるぐるま
に乗って、彼は、楽しまぬ顔を廉れん
にかくして、平門ひらもん から出て行った。やがて、遠いほこりの下に、加茂の群集が望まれてきた。青葉若葉の木がくれに、紅白の幟のぼり
だの唐錦からにしき の旛ばん
だの、榊葉さかきば をくくりつけた馬出うまだ
しの竿さお だの、人間で埋められた入口も見えはじめた。家成の古車は、そのときもう無数の他の牛車に押し揉も
まれていた。なんというおびただしい車の数であろう。檳榔車びろうのくるま
もある。糸毛車いとげぐるま もある。こんなにも、都には、車の数があるものか、と驚かされるばかりである。家成は、ふと、舌打ち鳴らして、ひとり心の底で心のかぎり罵ののし
りちらした。 「アッ。あれは、わしの新調の車らしいぞ。誇らしゅう、わしの前を打たせて行くわ。・・・・ちぇっ、牝馬めすうま
め。──媼おうな のくせに、色気いろけ
づいて、あぶみにも、くつわにもかからぬ牝馬め」 |