〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/18 (金) かり 宿やどにょ (四)   

ゆうべも、瑠璃子は、東の対ノ屋へ、泊ったらしい。
けさ、気づいて、家成は、たちどころに、不快になった。
室に、菖蒲あやめ の花を け、冠台かんむりだい に、造花のついたかずら冠を せて── せっかく菖蒲酒しょうぶざけ をともに祝おうと、土杯かわらけ までそろえたのに、召使を見にやらせれば、さっきから、泰子やすこ とふたりで、長々と、湯殿にはいっているという。
「いまに見い、姪も、朱に染まって、あんな女に、成り終わろうて」
ひとのせいみたいに、彼は、妻へ向かって、ぶつくさいった。
だが、やがて、五月五日のあお い空と大廂おおひさし の外に仰ぐと、
「節句じゃ、不機嫌は、やめよう」 と愚をさとって、
「装束を出せ、そろそろ、時刻であろうが」
と、ものうげに、腰を立てた。
加茂の競馬は、今日であった。ちまたは、人出で、熱鬧ねっとう をえがいているにちがいない。
家成は、毎年の例で、競馬がすんだあとの祭典係りの一員として、列に立つことになっている。──仮病けびょう も考えたが、そうもなるまいと、思い直して、束帯そくたい を着、華冠はなかんむり を、頭にのせた。そしてあごを上げて、妻に紐を結ばせながら、いいつけた。
牛車くるま をひけい。新しい方の牛車じゃぞ」
召使は、かしこまって、すぐ雑色ぞうしき 部屋へ、支度を命じに走った。
ところが、新調の美しい牛車の方は、すでに、泰子と瑠璃子が、相乗りで、ひと足先に、乗って出てしまったということであった。
「あな、たわけ!」
家成は、ヘイライどもを、痛罵つうば した。──なんで、新調の方を出したのか。ひとこと 、自分の耳に入れないのか。瑠璃子も瑠璃子である。いまは、あの姫までが、まるで叔父叔母をわすれている。養家の恩にそむいてまで、あんな宿借やどか り女の偽態ぎたい の愛にたぶら かされてしまうものであろうか。──家成は情けなくもなるし、腹が立ってならなかった。が、ぜひなく、ふだんの古車ふるぐるま に乗って、彼は、楽しまぬ顔をれん にかくして、平門ひらもん から出て行った。やがて、遠いほこりの下に、加茂の群集が望まれてきた。青葉若葉の木がくれに、紅白ののぼり だの唐錦からにしきばん だの、榊葉さかきば をくくりつけた馬出うまだ しの竿さお だの、人間で埋められた入口も見えはじめた。家成の古車は、そのときもう無数の他の牛車に押し まれていた。なんというおびただしい車の数であろう。檳榔車びろうのくるま もある。糸毛車いとげぐるま もある。こんなにも、都には、車の数があるものか、と驚かされるばかりである。家成は、ふと、舌打ち鳴らして、ひとり心の底で心のかぎりののし りちらした。
「アッ。あれは、わしの新調の車らしいぞ。誇らしゅう、わしの前を打たせて行くわ。・・・・ちぇっ、牝馬めすうま め。──おうな のくせに、色気いろけ づいて、あぶみにも、くつわにもかからぬ牝馬め」

※檳榔車
牛車の一種。さらした檳榔の葉で、車の箱の全体を葺き覆ったもの。太上天皇・親王・摂政・関白以下、上卿の乗用。びんろうぐるま。びりょうげなどともいう。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next