当主の家成は、五重がらみの、人の好
さそうな男だった。右大弁うだいべん
の官職にあったが、今は退官して、闘鶏とうけい
にばかり熱心である。 子がないので、姪めい
の瑠璃子を、このまま貰ってもいいとしているふうであった。 ところが、この二月以来、とんでもない厄介者やっかいもの
が、戻って来た。泰子である。何と意見してみても、ふたたび今出川へは、帰ろうと言い出さない。 (四人もの、子を残して) と、母性を衝つ
いても、泰子には、さしたる愛着のもだえもないし、 (そもぞとて、もう三十八という年では、いかに、美しかろうとて、そう、他家へ再婚も、なるまいに・・・・) と、暗に、彼女の自身を、諷してみても、耳をかす容子ようす
はない。 それどころか、彼女は、ここは、自分の里親の家と、まったく、生涯を寄せきっているふうで、いい部屋をおくつも占し
め、朝風呂、寝化粧ねげしょう
、何不自由ない貴婦人生活を、それこそ、理想通り振舞っているのである。 勝手に、牛車くるま
は使うし、召使はこき使う。夜は夜で、いずこの男か、忍んで来る様子も、あるとかないとか──雑色ぞうしき
部屋では、ヘイライどもにうわさの種になっている。 意見の程度を越えて、もし家成が、不平でも言おうものなら、彼女はたちまち色をなして、かえって、家成をやり込めてしまうのである。かって、白河上皇の寵幸ちょうこう
を受けた身であるという誇ほこ
りが、彼女の心の骨格になっているらしい。すぐ、白河の御名おんな
を口に出す。そして女王の前の臣下のごとく、完膚かんぷ
なきまでに、家成ごときは、いい伏せてしまう。 家成は、もうその愚にはコリている。近ごろは、言わぬに如し
かずときめていた。彼女がちょうど今の瑠璃子ぐらいな年ごろに、上皇のお好す
きを知って、祗園女御ぎおんにょご
を取り持ったのは、自分である。ために、そのころは、上皇の覚えもめでたく、官職も枢要すうよう
に就き、庄園しょうえん (智行所)
の地も増され、賜たま わり物も少なくなかった。──彼女は、それを忘れない。しかと覚えて無形の資産としているのだ。忠盛へ嫁いでからも、おりおり、ねだりごとに来ていたのである。 自業自得じごうじとく
とはいえ、実に、えらいものを、背負い込んだと、家成はこのところ、楽しい日を失っていた。それにひきかえ、泰子の住む東の対ノ屋では、男女の客の絶え間がない。すご六だの、香こう
の会だの、管絃かんげん の稽古けいこ
だのと、寄り集まっている顔ぶれの中には、いつ、どうして、彼女と親しくなったものか、自分の闘鶏の友人までが、交じっているのだ。 いや、家成が、もっと眉まゆ
をひそめたのは、瑠璃子への、感化であった。 瑠璃子も、いつか、彼女の虜囚になってしまい、西の対ノ屋にいるときはほとんどなく、のべつ泰子のほうへ、入り浸っている。 館やかた
は、中央の大きな母屋おもや を寝殿しんでん
と呼び、また渡殿わたどの という長い廻廊かいろう
づたいに、東と西とに対ノ屋が、わかれていた。そのほか、泉殿いずみどの
とか、つり殿とかも、すべて中心の閣かく
をめぐっている。 公卿館くげやかた
の様式は、例外なくこの “寝殿造しんでんづく
り” である。家族たちが住む西の対ノ屋から、東の対ノ屋までは、ずいぶん遠く離れていた。 (瑠璃子。東の対ノ屋へは、行くなよ。ろくなことは覚えまいに) やかましくかれはいう。が、いつのまにか、瑠璃子は行って泊っている。家庭はらちゃくちゃない姿だ。雑仕ぞうし
の女め や、家人たちに見張らせても、ききめはない。なぜなれば、いまや召使たちが恟々きょうきょう
と仕えているのは、家成ではなくて、泰子であった。 (── なるほど、強武者こわむしゃ
の平ノ忠盛すらも、若さをしぼませたのも、むりはない。忠盛が、長い年月としつき
、偏屈人へんくつじん に見えたのも、今にして、察しがつく。亡な
き白河上皇も、思えば、罪なお遺物かたみ
をのこされたものかな) と、家成は、わずか、ふた月の忍耐にすら、白髪のふえる思いに比べて、よくも二十年もの間、妻に持って、辛抱していたものよと、今さらのように、忠盛を、えらいと思った。
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