〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/18 (金) かり 宿やどにょ (二)   

天井は低く、床は、 の子。真っ暗で、箱みたいな湯殿の中である。白い二つの女体が、寄り添って、じっと、全裸に汗を浮かせていた。
そのころの湯殿というのは、みなむろ になっている蒸風呂むしぶろ であった。外の焚き口で、火がハゼると、たちまち室中むろじゅう が白い湯気に満ち、中の温度は上昇してくる。
「ま、瑠璃子るりこ さまは、可愛らしいお乳をして、今ごろの、桜ンぼみたい」
「いやですわ、小母さまは。そんなにわたくしの体ばかり、見ていらっしゃっては」
「いいえ、この泰子にも、むかしは、あなたみたいな、肌のうるわ しい時代があったのにと、うらやまいさに、つい、見とれるのですよ」
「でも、小母さまは、今でも、そんなにおきれいな肌をしていらっしゃるではありませんか」
「・・・・そう?」 と泰子は、自分の乳首を見た。白いうなじ の伸び方といい、全姿に浮いた玉のあぶら といい、瑠璃子がいったのは、お世辞ではない。── けれど、彼女自身にしてみれば、乳房は、つかんでみても張りがないし、乳首は、あんず種子たね みたいに黒い。なんとしても、四人の男の子をはぐく んだ泉の れが皮膚にもある。ことに、あの癇性かんしょう な清盛が、まだ二つか三つのころの時、乳首に みついた歯のあとが、いまでも白っぽいあとになって残っていた。
「・・・・」
彼女はふと、むらっと、腹が立った。乳首が思い出させるのである。── 忠盛と別れ、、あの貧乏邸を去った日である。人もあろうに、自分のほお を、火の出るほど打ったのは、この乳房で育てた我が子清盛ではあるまいか。男の子とは、母親に、一体そんなものであろうか。── としたら、女親とは、なんたるつまらない者だろう。成人してしまえば、ひとりで大きくなった気でいる子に ── と、そのおりの口惜くちお しさを、ありありとひとみ に出して、乳根ちちね を、じっと握って見ていた。
「小母さま。・・・・おさきに」
瑠璃子はもう湯殿口の遣戸やりど をこぐって、次の、囲いのうちで、水をつかっていた。
この姫は、ここの当主、中御門なかみかど 家成いえなり の妻のめい であった。一般に、早婚のふう があって、女性は十三、四歳といえばもうとつ ぐのが少なくないのに、人並み優れ容姿ようし をもちながら、なぜかこの姫は。ことし十六という妙齢まで、嫁ぎもせず、叔父叔母のやかた に養われているのである。
聞くところによると、姫の父は、伊賀守いがのかみ 藤原為業ふじわらためなり といい、地方長官のならいとして、任地に居住しているが、そのことの不便ばかりでなく、為業は、とかく中央の政令に添わない事が多く、関白家の忠通ただみち も、左大臣頼長も、同族の異端者と て、よく思っていないことが、いん をなしているのだといううわさもある。
──が、彼女は、婚期などには、無頓着むとんじゃく で、結構、毎日を陽気に暮していた。ことに、東の対ノ屋の一部屋に、泰子が住むようになってからは、のべつ、西の対ノ屋からこっちへ遊びに来ていた。夜も泊ったり、風呂も一緒に入ったりする。そして、未知な世間話だの、新しい化粧の仕方だの、恋愛寒だの、ときには、男の品定めなども、あけすけに聞かしてくれる泰子が、またとない い小母さまと思われて、心からなつき慕っているのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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