数日の後である。院のお許しを得た旨を、忠盛は、源ノ渡へ、じかに伝えた。 父の言いつけで、早めに、邸へ帰った清盛は、青毛の若駒を厩から出して、九条菖蒲
小路こうじ の渡の邸まで、ひいて行った。 「見事な、若駒よの。院のであろうか、内裏だいり
のであろうか」 道行く人も振り返ったが、清盛は、厄落やくおと
としにでも行くような気持なのだ。 渡は、待ちかねていた。みずから、厩も掃除そうじ
していて、たいへんな歓よろこ
びかただった。かくも歓ぶ彼を、見たこともないほどだった。 「はや、たそがれ、あいにく、妻が出ているが、まあ、飯めし
でも食って行ってくれ。祝いだ。神酒みき
も、一杯ひとつ 」 灯ともるまで、馳走ちそう
になって、清盛は、指の先まで、酒気に染まった。 自分のやしきと見比べて、なんと、この家のすがすがとよく調ととの
っていることだろう。柱も黒く、べつに調度の飾りとてないが、なんとなくつやがある。去年の暮れとかに、妻を娶めと
ったというその新妻にいづま のまめやかさの光かも知れない。──清盛はうらやましい気持で、ときどき、渡の口から出る女房自慢などを聞かされた、やがて、座を辞した。 そして、武者屋敷と言えばどこでも同じな冠木門かぶきもん
の袖垣そでがき まで、渡に送られて出て来ると、おりふし、外から戻って来た彼の新妻とばったり出会った。 留守におとづれた客と見て、彼女はすぐ被衣かつぎ
を脱と って礼をした。黒髪やら、たもとやらに、焚た
きこめてある香こう のふくよかな気け
が清盛のあいさつをひどくどもらせた。渡は、妻をひきあわせあて、 「や、ちょうどよいおりに戻った。平太、見知っておいてくれい。家内かない
だ。── 去年まで、上西門院じょうさいもんいん
の雑仕ぞうし に召されていた袈裟けさ
ノ前まえ と申すもの」 と言った。そしてさっそくにも、すぐ立ち話で、青毛が移厩いきゅう
されてきた歓びを、この新妻に語り分けるのであった。清盛は、人妻ながら、なんとなく、はにかましくて、ろくな口もきけなかった。 菖蒲小路から木辻きつじ
の暗い道を、彼は、火ほ てった頬ほお
と、袈裟御前の面ざしばかりを意識しながら、ふらひら戻っていた。世にはあんな華麗な女性もいたものかと消えない幻影を連れて歩いた。彼のいただく二十歳の春の夜空に、美しい星が一つ、殖ふ
えていた。 と、だれなのか、黙って、彼の後ろから、大きく手をまわして背を抱いた者がある。 ── 賊だな。木辻には、夜な夜な夜盗が出るという。清盛は、太刀のつかへ、すぐ手をやった。 「平太、棘とげ
を立てるなよ。このあいだの宿へ行かないか」 耳もとで、にぶく笑う。なんとそれは、遠藤武者盛遠であった。清盛は、そうと、たしかめ得ても、なお、いぶかりは去らなかった。なんでこんな人も通らぬ京の端はし
を、面おもて をつつんでうろついているのか──
と。 「行きたくないのか。いつぞやも、六条の遊女宿あそびやど
へ」 盛遠は言った。──行きたいさ、と清盛の胸は一も二もなく反響する。が、心のわからない男だとも深く怪しむ。 「・・・・来いよ。待っていたのだ。たそがれ、わぬしが、青毛をひいて、渡の邸へ行ったのを見かけたので」 こういうと、盛遠はもうのみこみ顔な足どりだった。何か、この男にはぐいぐいと牽ひ
かれるような力を彼は感じる。いや、盛遠にあるのではなく、あの板壁と素す
むしろに住む、売女の肉にあるのかも知れない。清盛は、思わざる僥倖ぎょうこう
に、待たれたような気がしてきた。 例の、六条洞院裏の遊女宿で、それから、盛遠も飲み、清盛も飲み、淫みだ
らな女を相手に、夜をふかしたことは、この前のときと変わりがない。いや、部屋を分かって、女と二人きりになってからは、清盛は、前より少し大胆になれた。いくらかでも、女と口がきけただけでも、ちがっていた。 「連れは・・・・俺の連れは、どこへ寝たのか」 「あの人?」
と、女はくすくす笑った。 「あの人は、寝たことなんか、一度もないんですよ」 「え。じゃあ、帰ったのか」 「いつでも、そんな風ふう
なお人。ほんに、何しに来るのやら、気が知れない・・・・」 女はもう眠たいらしい。答えるのも、億劫おっくう
そうに、清盛の首を、余るほどな力でいきなり抱きしめた。 「俺は帰る。盛遠め、何か、俺を試ため
しているのだ」 清盛は、そこを、飛び出した。宵に持った美しい幻影の道連れは、もう彼について来なかった。 あくる日、院の武者所に、盛遠は姿を見せなかった。次の日、また次の日も、出仕した様子がない。清盛は、気がかりになった。──
それにひきかえ、いつ院中で出会っても、以来、幸福にみちた顔を向うから先に示してくるのは、袈裟御前の良人、源ノ渡であった。 |