〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/17 (木) 袈 裟 御 前 (三)   

その日の、青毛のうわさは、翌日にはもう、院中にかしましかった。忠盛に心よからざる公卿は、以前から多いのだ。それは彼が、武者の分際で、ただ一人、昇殿しょうでん を許されているという一事にあった。
たとえ一人の忠盛でも、帝座ていざ にまぢかい殿上てんじょう へ、地下人を上げるなどは、彼らの狭量と排他性がゆるさない。雲上うんじょう の特権を破壊されると感じたのである。スガ目の伊勢こそは、油断がならぬ。上皇のご機嫌を取り事に妙を得た者と、そのころから、警戒されていたのだった。
事実、上皇の御信頼は、今にしても、変っていない。
忠盛が、あんなにも長い年月、ろくに出仕しゅっし もせず、お召しのほかは、節会せちえ の式日の参向さんこう すら怠って来ながら、このごろやっと、ひさびさな勤務についても、上皇は以前通りな寵遇ちょうぐう を彼に示された。そして、彼の言葉は、まま、お取り上げのえい に会う。
昇殿問題を、忘れていた公卿たちは、今日の右近の馬場で、また、安からぬひがみや憎みを新たにした。
「いやはや、小うるさいことどもよ。何年たっても、変らぬは、公卿くげ がえる の住む古池ではある」
忠盛は、今出川の屋敷に帰ると、昨日のうちに、ここの厩へ移して来た青毛の前へ立って、その鼻づらをなでながら、馬に言うようにつぶやいた。
「父上。きゃつらの陰口など気にしていたら、とても、都に生きてはいられません。ばかどもよと、わら っておけばいいでしょう」
「や、平太か、いつ戻った」
「父上のお帰りを見、宿直の日でもありませんので、しぐおあと から──」
「おまえも、不快を顔に出すなよ」
「なんの、腹のそこで、今に見ろと、思うだけです。心をもちかえて、出仕しようと っしゃった父上のお気持を、わたくしとて忘れません。・・・・それに、わが のうちも、なんだかこのごろは、明るくなったし」
「いや、おまえは、さび しかろう。・・・・母に離れて」
「言い出さぬお約束ではありませんか。父上、それはやめましょう。・・・・ところで、青毛のことですが」
「うム、良い馬だな。お前も、朝夕、地乗じの りしておけ」
「え、そう思いましたが、実は、同僚のみなもとわたる が、どうしても、青毛の調教を、自分に譲ってくれといいます。五月の加茂の当日には、あの青毛を出して、十列とつら の競馬に参加したい。おぬしの父から上皇に奏上してくれい、頼んでくれいと・・・・つきまとわって、わたくしへせがむのです」
「渡がか? ・・・・」 と考えて── 「平太、おまえに、その所願しょがん はないのか。他人ひと よりは、おまえに」
「何しろ四白よつじろ ですからな、四白でなければ」
清盛の濃いまゆ が、ちょっと、まゆ に似げない針みたいな神経を寄せたのを見、忠盛は、はっとした。このずぼら息子のうちに、親も気づかずにきた一性格があったかと、いま知った思いがしたのである。
「いや、源ノ渡なら、きっと、それくらいな熱望はもつだろう。院の思し召しの程、いかがあるや、はかられぬが、伺ってみてやろう。おまえに、望みがなくば」
多少、落胆の色はあったが、忠盛は、そう言って、郎党たちに、飼糧かいば 、手入れの注意などを与え、やがて奥の──いまは喧嘩けんか を売って来る妻もない独り居の の下へ──幼い子らを呼び寄せて、戯れていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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