〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/16 (水) 袈 裟 御 前 (二)   

「忠盛やある」
上皇は、お声をかけた。たくさんな若駒を、一頭一頭熱心に見てこられたのち、扈従こじゅう の公卿たちの頭を越えて、随身の武者忠盛へ、直々じきじき に、 かれたのである。
「ことしは、さして、眼をそばだたすほどな名馬も見えぬの。そちの眼ではどうか」
平伏した忠盛は、わずかに、頭を上げて答えた。
「いえ、ただ一頭は、なかなかすぐ れて見えました」
「一頭は──というか。はての・・・・オオ、下毛野しもつけ ごま の、青毛あお ではないか」
「おめがねの通りであります」
「あれなら、まろも、つなぎぐい の前で、しばし見とれたが、馬観うまみ たちも、公卿どもも、口をそろえて、やめよというた。四白よつじろ とやらは、よくないそうじゃの」
「俗説です。とるに足らぬ・・・・」 と言いかけて、忠盛は、なぜ自分はこう自分をあざむけない性分しょうぶん かと、すぐ悔いを覚えたものの── 「これほどな馬数うまかず にも、あれにまさ るは見うけません。容貌かおだちひとみ尾長おなが など、名馬の相を、ことごとくそなえたものです」 と言ってしまった。
上皇には、ふたたび迷うお顔つきに見えた。五月には、院の馬で、朝廷方を負かしてやりたいのだ。それには、四白よつじろ の青毛をと思われたのだが、忌みごとをひどくおそれる貴族的な通有性では、上皇も同じであられた。
「もし、いちど惜しゅうと思し召すなら、青毛のみは、院の御門を避けて、忠盛が家のうまや に、その日まで、つなぎ置くもよろしゅうございまする。わたくし、おろかな言い伝えなどは、さらさら気にかけませぬ者ゆえ」
忠盛は、公卿たちのてまえと、自分の言葉の責任上、そう考えた通りを言った。
「なるほど、それならば、さわ りもなかろ。そちの手にあずかって、加茂の日までに、脚馴あしな らしも、充分にしておくがよい」
── 還御となった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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