〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/16 (水) 袈 裟 御 前 (一)   

和歌のつど い、こう く会、また、蹴鞠けまり散楽さんがく 、すごろく、貝合かいあわ せ、投扇興。そのうえ四季の物見行楽ものみこうらく だの、闘鶏とうけい だの、 け弓だのと、およそ今ほど、遊びごとや け事のさかんなときは、かつてにもない。
飛鳥あすか 、奈良のころも、四季の楽しみや、宴会うたげ 、歌むしろは、ずいぶんおおらかに、それが天賦てんぷ の自然生活でもあるように送って来たこの国の人びとではあったが、こう、すべてを、遊戯化してはいなかった。
宗教行事、政治儀式、何でもかでも、遊戯化してしまう。遊戯化されないのは、武門の武事だけ──という時風じふう である。
その戦争には、上下一般、内心では恟々きょうきょう としていた。火ダネは、いたるところにある。強大暴慢な僧団の武力、西国、東国から周期的におこる土豪や海賊の叛乱はんらん 。もっと手近いところでは、朝廷と院と、二つの政府の、対立もある。さらに近ごろ、もっぱらいわれているのは、源氏系武者と、平家系との、同種二党の急激なふと り方である。極めて、自然な現象みたいに、それはいつの間にか、見えない育ち方をし始め、全国的に潜勢力を伸ばしあっていた。
(あぶない、地上──)
だれもが、そう ている。いつをも知れない世の中を感じている。
ところが、そのおそれとは、正比例に、地上は、歓楽的にのみいろど られ、むりにでも享楽しようとする意欲が強い。──近年、加茂競馬の人出などにも、それが られた。
競馬は、古い。 には、文武天皇の大宝元年 (西暦701年) が始とみえる。禁庭きんてい で、左右の衛府えふ の人びとだけでやったものらしい。それも五月の節会せちえ だけに。
ここ数年の競馬流行は、とてもそんなものではない。五月の加茂競馬以外にも、諸所の神社で行われるし、天皇、上皇、妃たちの行幸みゆき にあたり、離宮や公卿大臣の第宅でも、私邸競馬がたびたびある。また、路上競馬ろじょうけいば といって、街中まちなか の、二条大路でも催されたことがあるし、野外の行幸先で、不意に下命によってやる場合も珍しくない。
十列競馬とつらけいば は、十騎争い。十番競馬は、二騎 けで、十たびの競争をするのである。馬場は、直線がなら わしだった。馬出しから、決勝点の標識まで、真っすぐ に走ったきりで勝負がつく。──だから、都大路の真ん中でも、通行止めさえすれば、出来ないことはない。
さきの、堀河天皇は、非常な熱心家で、禁門の馬寮には、諸国の逸駿いつしゅん をつながせて楽しまれた。右馬頭うまのかみ左馬頭さまのかみ らの配下は、このちょう に人員も増されたし、役柄やくがら も大いにふるった。特に、競馬御料ごりょう として、二十ヶ所の荘園しょうえん を諸地方に下付されたのも、それ以来のことである。
ひいて、白河天皇、いまの鳥羽上皇も、その君に、おさおさ劣らぬお好きであった。
── 今日、右近の馬場へ、わざわざ御車みくるま をお向けになったのも、能登のと加賀かが出雲いずも伯耆ほうき伊予いよ播磨はりま下毛野しもつけ武蔵むさし などの御料の牧の若駒どもが、加茂の五月を前に、ぞくぞく都へひかれて来たので、それらを りすぐって、院の馬寮へ収められる思し召しだったのだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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