〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/15 (火) 競 べ 馬 (二)   

右近の馬場の桜も、今朝あたりを、あで な盛りとして、夕方には、もう散り初めるのではないか。ま昼の馬場いちめん、草萌くさも えのにお いも手伝い、 せるばかりな花の肉感が、そよ風のたびに、顔をなでる。
「そうか。和殿わどの の眼も、あれと見たか。──この春、諸国の牧からのぼ って来た四、五十頭のうちでも、まず、あの青毛あおげ四歳駒よんさいごま に及ぶ逸駿いつしゅん はない。こう見ても、ほれぼれする」
みなもとわたる は、大きな発見でもしたように、くり返して言っていた。──さっきから、馬場の埒内らちうち へ、眼もはなたずに。
この馬囲いには、たくさんな若駒わかごま が、つながれていた。
「乗りたいな。無性むしょう に、乗りたくなる。── 乗り味のよさが思われてくるのだ。たま らない名馬ではある。あの後脚もとあし からさんずにかけての、からだ づくりといったらない」
果ては、ひとりごと にいう。
ふたりは、らち の外の、大きな桜の木の根もとに、ひざを抱え合っていた。──が、もうひとりの、佐藤義清のほうは、かれほど馬好きではないらしい。返辞は微笑だけだった。
「義清。──和殿は、そんな気がしてこないか」
「・・・・とは、どういう?」
「加茂の晴れの日に、あの青毛あお の背で、勝ち鞭をあげて、満場の凱歌がいか につつまれたらと」
「思わぬなあ。・・・・そんなことは」
「思わない?」
「名馬とわかれば、自分には、なお縁がないと、思うだけに、馬がよくても、騎乗が悪くてはの」
「それや、謙譲けんじょう というよりは、虚偽に聞こえる。和殿に乗りこなせないはずはない。いや、おあたがい、鳥羽院の随身ずいしん たり、武者所の侍ともある者がよ」
「はははは、渡、それは、話が違う」
「何が違う」
「おん身は、競馬をいっているのだろう。五月の加茂の、くらべ馬にと」
「もちろん。── ここの若駒は、みなその日の為に祝されている駒だ」
「── が、わしは競馬はきらいでな、車駕しゃが の御供に、随身として、乘ならべつだが」
「いざ、合戦の日には」
「ねがわくば、いくさ には、会いたくない。近ごろ、武人の身を、悔いることしきりなのだ」
「ふム・・・・」 と、不審そうな眼を、友の顔にこらして、
北面ほくめん のうちでも、わけて勇猛と聞こえのある、佐藤兵衛尉ひょうえのじょう 義清の口から、いままでにない言葉を聞く。どうかしたのか。おい」
「どうもせぬよ」
「恋でも・・・・」
「恋もしてみないことではないさ。それが今の妻だ。あの妻で不足はない。・・・・が、実を言えば、数日前、この春のあけぼの に、玉のような、子が生まれた。わしも父なったのだ」
「おれたち、武者輩むしゃばら でも、おのおの、家庭を持てば、子どもも生む。それが、なんのふしぎか」
「そうだ、実に、子だくさんがそろっている。そして、生み生みするものを、よくもまた、あわれとも、思わぬのが、ふしぎでならぬ」
「あははは、どうかしておるぞ、今日の和殿は」
渡は、哄笑こうしょう した。笑い放したかたちで、また、馬囲いの篷へ、眼をやった。──と、そこのさく から、こちらへ出て来る伊勢平太清盛と、遠藤武者盛遠の顔が見えた。かなたの二人も、ここの二人に気がついたらしい。清盛の赤ら顔が笑っている。渡は、手をあげてさい招いた。かれなら馬好きと、見たからである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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