「平太様が、気が狂うた」 「物に憑
かれたか、和子わこ 様が、暴れ出して。──
ある、あの通りじゃ。早く来い。はやく」 屋敷中の、騒動となった。 貧しくても、さきには、地方の守かみ
まで勤め、院の武者所をも預けられた忠盛である。食うや食わずも承知のうえで、なお、仕えている家の子郎党は、つねに二、三十人はいた。 中には、木工助家貞のせがれ、平六家長もある。平六は、父の木工助が、今朝から奥へ呼びつけられたままなので、庭垣にわがき
の外に、うずくまり、父に身を案じていたおりだった。そこで、まっ先に、同輩たちを呼びたてながら、ただごとならぬ悲鳴、物音、叱咤しった
の場所まで、ひと息に、駆か けつけて来た。 ──
が、騒ぎは、一瞬の間ま であったらしい。 縁の上から転まろ
び落ちた泰子は、紅梅の袿衣うちぎ
や、白、青の襲衣かさね も、またその黒髪もふり乱して、大地にうつぶし、どうかしたのか、そのまま起きもしないのである。 また、すこし離れた所には、 清盛が、肩で波を打ちながら、父忠盛に、腕くびをつかまれていた。いかにも、複雑な形相ぎょうそう
だった。阿修羅あしゅら の像みたいに、突っ立っている。 その二つのものの間に、経盛と木工助は、茫然ぼうぜん
としていたが、召使たちの跫音あしおと
が、ここへ集まってくるのを知ると、泰子は、蒼白そうはく
な顔を、地面からきっと上げて、 「お。・・・・誰た
ぞ、span>牛車くるま を呼んで来て給もれ。・・・・それから、ひとりは、里親の中御門殿まで、走って、この体てい
を告げて給も。くちおしい・・・・くちおしい」 と、叫び続けた。 すぐ、街の牛車宿くるまやど
へ、一人ははしり、べつの者は、六条坊門の中御門家へ、駆けた。 忠盛は黙認していた。 ほどなく、牛車が来る・・・・。半病人のようになって、彼女は、召使の背に負われた。そして、築土ついじ
の外へ出て行った。 そこでも、ひとしきり、彼女の涙まじりの甲かん
高い声やら、経盛以下の、小さい子どもたの泣き声がもつれもつれに聞こえていた。 それに堪えつつ、忠盛は、清盛の腕首を、いよいよ固く、握りしめたまま、じっと、二本の大木みたいに、立ち続けていた。 空には、夕月があった。 やがて、牛車の輪音わおと
がにぶく、重く築土に添った道を、のろのろと、遠のいて行った。・・・・聞こえなくなった。 「平太っ」 と、忠盛は、やっと手を離した。 くびられていた手頸てくび
の動脈が、突然、血を放たれて、どっと体じゅうに奔流した。清盛は、こめかみに筋を見せて、泣き出した。赤子のように、手放しで、泣き出した。 そのきたならしい泣き顔を、忠盛は、自分のふところへ抱え込んだ。そして彼の頭へ、ごしごしと、音のするばかりほおずりを与えた。 「克か
った。やっと、わしは、わしの愚に、いま克った。── 平太よ、かんべんせい。彼女あれ
を、そちに撲なぐ らしたほど、わいは意気地のない親だった。おろかな男親であった。・・・・だが、もう今までのような悲しみはさせないぞ。伊勢ノ忠盛の面目を、これからは奮ふる
うてみせる。責めるな。そうわしを、泣いて責めるな」 「父上。・・・・わ、わかっています。父上のお気もちは」 「かくても、そちは、この忠盛を、父と呼んでくれるかやい」 「呼びますっ。呼ばしてください。父上っ・・・・お父さまっ」 「おお、俺の子よ」 「俺のお父さま」 研と
がれてきた夕月の下は、藍あお
い藍い夜霞よがすみ だった。その遠くのほうで、木工助じじが歌うらしい、子守歌が聞こえていた。
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