〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/15 (火) 去 ゆ く 母 (三)   

「平太様が、気が狂うた」
「物に かれたか、和子わこ 様が、暴れ出して。── ある、あの通りじゃ。早く来い。はやく」
屋敷中の、騒動となった。
貧しくても、さきには、地方のかみ まで勤め、院の武者所をも預けられた忠盛である。食うや食わずも承知のうえで、なお、仕えている家の子郎党は、つねに二、三十人はいた。
中には、木工助家貞のせがれ、平六家長もある。平六は、父の木工助が、今朝から奥へ呼びつけられたままなので、庭垣にわがき の外に、うずくまり、父に身を案じていたおりだった。そこで、まっ先に、同輩たちを呼びたてながら、ただごとならぬ悲鳴、物音、叱咤しった の場所まで、ひと息に、 けつけて来た。
── が、騒ぎは、一瞬の であったらしい。
縁の上からまろ び落ちた泰子は、紅梅の袿衣うちぎ や、白、青の襲衣かさね も、またその黒髪もふり乱して、大地にうつぶし、どうかしたのか、そのまま起きもしないのである。
また、すこし離れた所には、
清盛が、肩で波を打ちながら、父忠盛に、腕くびをつかまれていた。いかにも、複雑な形相ぎょうそう だった。阿修羅あしゅら の像みたいに、突っ立っている。
その二つのものの間に、経盛と木工助は、茫然ぼうぜん としていたが、召使たちの跫音あしおと が、ここへ集まってくるのを知ると、泰子は、蒼白そうはく な顔を、地面からきっと上げて、
「お。・・・・ ぞ、span>牛車くるま を呼んで来て給もれ。・・・・それから、ひとりは、里親の中御門殿まで、走って、このてい を告げて給も。くちおしい・・・・くちおしい」
と、叫び続けた。
すぐ、街の牛車宿くるまやど へ、一人ははしり、べつの者は、六条坊門の中御門家へ、駆けた。
忠盛は黙認していた。
ほどなく、牛車が来る・・・・。半病人のようになって、彼女は、召使の背に負われた。そして、築土ついじ の外へ出て行った。
そこでも、ひとしきり、彼女の涙まじりのかん 高い声やら、経盛以下の、小さい子どもたの泣き声がもつれもつれに聞こえていた。
それに堪えつつ、忠盛は、清盛の腕首を、いよいよ固く、握りしめたまま、じっと、二本の大木みたいに、立ち続けていた。
空には、夕月があった。
やがて、牛車の輪音わおと がにぶく、重く築土に添った道を、のろのろと、遠のいて行った。・・・・聞こえなくなった。
「平太っ」
と、忠盛は、やっと手を離した。
くびられていた手頸てくび の動脈が、突然、血を放たれて、どっと体じゅうに奔流した。清盛は、こめかみに筋を見せて、泣き出した。赤子のように、手放しで、泣き出した。
そのきたならしい泣き顔を、忠盛は、自分のふところへ抱え込んだ。そして彼の頭へ、ごしごしと、音のするばかりほおずりを与えた。
った。やっと、わしは、わしの愚に、いま克った。── 平太よ、かんべんせい。彼女あれ を、そちになぐ らしたほど、わいは意気地のない親だった。おろかな男親であった。・・・・だが、もう今までのような悲しみはさせないぞ。伊勢ノ忠盛の面目を、これからはふる うてみせる。責めるな。そうわしを、泣いて責めるな」
「父上。・・・・わ、わかっています。父上のお気もちは」
「かくても、そちは、この忠盛を、父と呼んでくれるかやい」
「呼びますっ。呼ばしてください。父上っ・・・・お父さまっ」
「おお、俺の子よ」
「俺のお父さま」
がれてきた夕月の下は、あお い藍い夜霞よがすみ だった。その遠くのほうで、木工助じじが歌うらしい、子守歌が聞こえていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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