〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/14 (月) 去 ゆ く 母 (二)   

「うるさい。泣くな」 と忠盛は、三人を叱って──
「今日までは、子らにために、何もかも、忍んでは来たが、もう、わしも、わしの愚から覚めた。おろかしや、平ノ忠盛も、一人の女人にょにん に制せられて、二十年の間、われとわが心をわずら わし通してしもうた。ばかじゃったよ。おれは。──平太、おまえのばかを、俺は叱れん。あははは。アハハハ」
持ち前のとり澄まし方に、じっと えていた泰子は、忠盛が、自嘲じちょう を発すると、むかと、顔に血を動かして、すぐ反発して来た。
「なんですか、その笑い方は。・・・・わたくしを笑ったのでしょう。たんとお笑いなさい。いくらでも、ひとをあざけ り散らすがよい。──上皇様が、世にいらっしゃるうちは、いくらあなたでも、こんなにまで、わたくしをがずかし めることは出来なかったでしょうに。・・・・とはいえ、わたくしにはまだ、上皇様の御在世のときに、里親さとおや とお決めくだすった中御門なかみかど さまというものがついておりますよ。覚えていらっしゃるがよい」
「はははは:」 と、忠盛は、なおさら笑って、
「中御門殿へは、いずれご挨拶に出向く、よい女御を、長い間、忠盛ごときへ、お持たせくだされたこと」
「ようも、悪たいを・・・・」 と、彼女は、これをさいごの憎悪として烙/rb> き残すような眸/rb>ひとみ で、忠盛をにらんだ。
「あなたこそ、このわたくしに、たくさんな子を産ませながら、ただの一日でも、はればれと、妻の私を、楽しませてくれたことがありますか。・・・・二十年、いやでいやでならなかったのを、ただ、子の愛にひかれて、この邸にいただけなのです。
・・・・ところが、どこから聞いて来たか、平太と郎党の木工助が、夜明け方、厩の蔭でしきりと、わたくしの陰口かげぐち をきいているではございませんか。──勿体もったい なくも、亡き上皇さまのおうわさまで出していたのです。やれ、そのころの祗園女御の許へは、夜な夜な忍び が通っていたとか。それは、八坂やさか の悪僧のなにがしかであったとか。まるで、見てでもいたように、木工じじも言えば、平太も言います。あげくの果て、清盛のまこと の父は、一体、たれなのか・・・・などと、正気とも思えぬことを言い狂っている二人を、わたくしは、この眼とこの耳で、つきとめたうえでの、決心なのです。・・・・もう、こんな邸には、一日とて、いられません。子どもにまで、そむ かれて、どうして、いることができるものですか」
「やめよう。やめてくれ。その話は、今朝から散々やりつくした。木工助も呼びつけて、胸いたむまで、やり合った問題だ、果てしがない。よしてくれい」
「では、あかし をたててください。わたくしの身の証を」
「だから、さきほども、いったではないか。──平太清盛は、まちがいなく、わしとそなたの、子どもだと」
「平太! 聞きましたか」 と、彼女は、するどく見て── 「聞きましたか。そこな、郎党の木工助も」
「・・・・」
「そなたたちは、めっそうもない陰口を言いふらす人々ではある。白河の上皇様に御寵愛ごちょうあい をうけたことは、かくれもないにせよ、八坂の僧を忍び としていたなどと、もう二十年も昔の古事ふるごと を、いったい、だれが言い出したのでしょう。──忠盛どのも、知らぬと言い、じじの木工助も、知らぬと言い張る。・・・・平太や、そなたはまさか、母のわたくしへ、うそは言わないでしょう。言って御覧なさい、その下手人げしゅにん を」
「わたくしです。そのことなら、だれでもない、この平太です」
「ま。そなたですって。・・・・いやいや、子のそなたが、実の母の悪口を、言い出すはずはありませぬ。そこな、じじであろうが」
「いや、自分にちがいありません。・・・・母上っ」
「ま。何と言う 。その眼は」
「そのことをただ そうとしては、いけないでしょうか。畜生の子なら、考えもいたしますまいが、清盛は、かなしいかな、人間の子でした。・・・・ほ、ほ、ほんとの、父親は、たれなのか、どうしてもわたくしは知りたい」
「あらわに、忠盛どのが、今もそなたへ、言ったではないか」
「お慈悲です・・・・おことばは。──清盛は、たとえ、ほんとうの男親なる者が分かっても、ここにおられる父上を、父以外の者としては決していたいません。・・・・けれど、もうこうなっては、あなた様へは、ただ さずにおきません」
清盛は、不意に、彼女のそで を、つかまえた。そして、夕べから涙にただれたまな じりを裂いて迫った。
「おっしゃい。あなたは、知っている。── わたしは、たれの子?」
「ア、この子は、気でも狂うたか」
「狂うたかもしれません。父上が、世間恥じて、こうこう長い月日、こも ったのも、あなたのためだ。あなたは、父上の大事な若い日々を奪った、おそろしい女狐めぎつね だ」
「なんですっ、母に向かって」
「母ゆえに平太は無性むしょう に、あなたがしゃく にさわる。あなたが、けが らわしいんだ、いまいましくて」
「あれっ──わたしを、そなたは、どうする気です」
なぐ らしてください。父上には、撲れないんだ。二十年もの間、撲れずにいたんだ」
「平太、ばちがあたりますぞ」
「なんお、ばちが」
「今は昔でこそあれ、この泰子やすこ は、かりそめにも、白河の君の御愛情に秘めたいつくしまれた体ですよ。もし宮中にあれば、きさき更衣こうい とも、あがめられたかも知れないのです。それをこんな、あられもない町屋敷へ、妻にと、下賜されて来たことを考えてみたらよい。そのわたくしに、手をあげたり、辱めたりすることは、取りも直さず、上皇さまへの反逆はんぎゃく です。無礼です。わが子とて、ゆるしは きませんぞ」
「ば、ばかなっ。上皇が、何だっ」
不意に、体じゅうから出た彼の声が、人々の耳をしびれるほで打った。いや、そればかりでなく、清盛の手のひらは、ぴしゃりと、母なる彼女のほっぺを、力任せに、はたきたおしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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