〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/14 (月) 去 ゆ く 母 (一)   

清盛は、そういう母の姿に、いま気がついた。
母の泰子は、病人のはずなのに、いつなお ったのか、またはやまいおか して、起きてしまったのか、盛装しているのであった。
例によって、高価な白粉おしろい を、惜し気もなく厚く用い、髪には、香料をしのばせ、まゆ をぼうと描いて、袿衣うちぎ に二十歳台の女性が着るような、あでやかなのを、着すべらせている。
(これは、ただごとではない。いつもの喧嘩けんか とは、少し違う)
母のよくいう ── 別れる、出て行く ── は毎度のことで、良人も子どもらも、驚かないことに決めているが、それはいつも、争いのさいごに出る脅迫で、こう冷静に、初めから身支度までして、言い出しているのは、見たことがない。
それと、父忠盛も、すでに彼女の要求に、承認を与えているようなふう が見える。
清盛は、急に、狼狽ろうばい を感じた。憎みながら、憎い母が、自分のからだと一つのものだったことが、血の中で、響きをたてた。
「ち、父上っ」──うろたえの眼を、向け変えて、こんどは父へ、にじり寄った。
「ほんとですか。いま、母上が仰ったお言葉は」
「ほんとだ。・・・・そちたちには、長い間、悲しませたが、ほんとだから、これからは、よかろう」
「ど、どうして・・・・」 清盛は、鼻をつまらせた。うしとへ来ていた弟の経盛が、きゅっと、のど の奥で、へんな泣き声をのんだからである。
「いけません、父上。・・・・今さら、こんな大勢な兄弟どもを、つくりながら」
清盛が父の自分へ向かって、意見を言った。忠盛には、それも、おかしかったろうし、いかにも、子どもの言いぶん らしく、稚気ちき に聞えたものとみえ、思わず顔をほころばせてしまった。
「はははは、平太。 ・・・・よいのじゃよ。これでよいのだ」
「何が、よいものですか。いったい、あとは、どうなるんです」
「泰子も、幸せになろう。あとの、そちたちも、かえって、 かろうというものだ。べつだんな、騒動ではない、案ずるな」
「いや、経盛が申しますには、何やら、わたくしのことから・・・・と聞きました。もし、平太が悪うござりましたら、どんなにでも、あやま ります。母上、小さい弟どもが、かわいそうです。平太も、以後お心に添うようにつと めまする。どうか、思いとどまってください」
清盛は、 び入った。この母に、こんなにまで、愛執を感じるのが、口惜しいし、ふしぎでもあったが、単なる感情とは別なものが、彼をして、狂おしいまで、そうさせた。
郎党の木工助は、彼にも増して、慟哭どうこく していた。経盛も泣く。──泣かないのは、冷たい夫婦だけだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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