〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/12 (土) 祗 園 女 御 (三)   

同じ、院の武者所に、遠藤えんどう 光遠みつとお というのがいる。彼は、同姓の武者盛遠の叔父おじ にあたる男だった。
── もうあれから十八年も後になってのことだが、
「忠盛の長男、伊勢ノ平太は、そちと、学友だっけな」
と、前置きして、ある日、こんな秘事を、おい に話した。
「むかし、上皇が愛された祗園女御を妻にいただいた忠盛は、今でも、あの女性にょしょう が、つき たずに産んだ子を ── 平太清盛を ── 心から、上皇のおんたね と、思い込んでおるのかしらて。・・・・そうだとしたら、あわれな者だ、実は、つい先ごろ、むかし、祗園女御と密通していたという男に俺は出会った。もう年ごろ、五十ぢかいが、なお八坂やさか の古寺に住み、八坂の覚然かくねん といえば、名うての悪僧じゃそうな。それが、まこと の、清盛の父親だと、自分で言っておるのだからな」
「えっ。ほんとうですか」 親しい学友でもあるし、うわさには、白河院の落胤らくいん らしいとも言われている友の秘密だけに、盛遠は、興味をもって、叔父へ問い返した。
「叔父上は、覚然かくねん とやらいう男自身の口から、それをお聞き及びでござりましたか」
「酒の上だが、さる場所でな。・・・・その覚然が、さも得意気に、もらしていたのをこの耳で聞いたのじゃ」
「意外ですな。実に」
「わしも、おどろいたが、悪僧とはいえ、さまでのうそは申すまい。・・・・話のつじつまも、合うておるし」
雨夜坊主の覚然から、光遠が聞いたという話は、もっとくわ しかった。
八坂の覚然は、祗園女御を、ふと垣間かいま 見て、欲情に駆られた。だが、上皇の思い者なので、たやすく近づけないでいた。この桧垣ひがき の家を中心に、上皇は下淫げいん を愛し、彼は上淫じょういん妄執もうしゅう していたかたちだった。朝に夕につけまわし、覚然はついに悪僧の本領をわらわして、暴力による思いを遂げてしまった。
上皇は、まれにしか、お通いにならない。覚然の寺とは、眼と鼻の間である。しかも上皇は、六十路むそじ に近いお年だし、覚然はそのころまだ三十代の僧侶そうりょ で、しかも美僧であったという。祗園女御が、こころと、肉体との、二つの本能に立ち迷いつつ、夜を重ねるごとに、どっちえ、愛情をひかれて行ったかは、いうまでもない。
そのうちに、時雨の一夜。
このような雨夜に、上皇のお通いもあるはずはなし── と、心をゆるして、祗園女御の門へ合図をして忍びかけていたところを、あいにくと来合わせた上皇に見とがめられ、扈従こじゅう の武者に、捕まり損ね、覚然は、一生に一度の生命いのち びろいをして、虎口ここう をのがれたと言うのである。
これを、覚然の出たらめでないとすれば、それから後、忠盛の家で、つき たずに産まれた子は、たれの子とするのが正しいか── となる。
光遠は、甥の盛遠に、以上のことを、話したものの、その後では、
「この秘事、めったに、ひとには、口外すなよ」
と、かたく口止めした。
盛遠も、今日まではたれにももらしたことはない。だがたまたま、塩小路で久しぶりに、見すぼらしい平太清盛の姿を見るにおぴ、何か、つつんでいられなくなったのだ。
── 一面には、大いに、彼を鼓舞してやろうという、盛遠らしい気分も手伝い、わざわざ酒を飲みにさそって、彼にささやいたものだった。
       ※
「じじ。これ、木工助。・・・・俺はもう知ってしまったぞ。かく しても、むだなことだ。・・・・むかし、二十年前、時雨の夜に、おまえは、その眼で見ていたはずだ。盛遠の話は、うそか、まこと か。── いや、おれはいったい、たれの子なのか。言ってくれい。・・・・木工じじ。・・・・あか らさまに、この平太清盛へ、言い渡してくれやい。そ、そのうえで、俺は俺の血を考え、生涯のあゆみを決めねばならぬ。・・・・頼む。いまはもう、こう、手をついて、俺は頼む」
さっきから、厩の蔭での声であった。しかし、それが止むと、水洟みずばな をすするのがもれるだけで、木工助家貞の声とては、一言ひとこと も聞こえなかった。── すでに、軒端の梅のほのかな気配けはい に、東の雲のゆるぎが感じられ、一しきり、夜明けの寒さが、ひしと、二人の骨をかんでいた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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