〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻
2013/01/13 (日) 夜 来 風 雨 急 (一)
うつ向いたまま、化石したかのような木工助家貞と、その彼を、にらみつめている清盛と。── 二人は、
鳥肌
(
とりはだ
)
になっていた。
暁
(
あかつき
)
の地の冷えに反して、相互の血は、その皮膚の下で、たぎりあっていた。
「申しまする。どうしても、言えと仰せならば、申しまする。・・・・が、しばらく、心を
調
(
ととの
)
えてから、申しまする」
・・・・やがて、木工助は、
苦汁
(
くじゅう
)
を吐くように、そう答えた。いや、うめいたと言った方がよい。それほど、語るに苦しい事情であるらしい。
が、木工助を、清盛が責めて止まないのも、無理はなかった。たしかに、彼は、清盛が生まれた年の──二十年前の──暗い
祗園
(
ぎおん
)
の
夜
(
よ
)
時雨
(
しぐれ
)
の中で起こったある一事件を、その眼で見ていたはずの人間である。
当夜、主人忠盛と共に、上皇のお
微行
(
しのび
)
に
扈従
(
こじゅう
)
して、偶然、その時に居合せた者なのだ。ただひとりの目撃者として。
だが、第三者が、目で見たとする記憶などが、世事百般に、どれほどな真実性を、真実だとして、後々まで、断言し切れるだろうか、ことに、二十年も前の闇の夜のことなどが──。
木工助も今、同じ迷いを持った。自分の目撃も、解釈のしようで、どうにでも、動くことを、新たに、思い返さずにいられない。
なるほど、半分ぐらいな “ほんと” は交じっているかも知れない。しかし、おせっかいな遠藤盛遠やら、世上でも語り伝えている──雨夜の油坊主と忠盛の
沈勇
(
ちんゆう
)
──と称する一事件は、まったく、木工助の目撃とはちがっている。彼の記憶では、その夜、上皇の訪れとともに、
祗園女御
(
ぎおんのにょご
)
が住む所の
垣
(
かき
)
を越えて、内から雨の闇へと、あわてて逃げ出した一人の怪僧を見かけただけのことに過ぎないのである。
それと。── その夜は、上皇と女御との、おん
睦
(
むつ
)
みも、常でなく、何やら、女御の泣き声がもれたり、忠盛が奥へ召されたり、上皇の荒々しいお声などもあって、暁も待たず、院へお帰りになってしまったのだが ── 違例なことでもあったし、いぶかしといえば、いぶかしいことでもあった。
けれど。
世上伝えられて来た油坊主の怪談が、その程度に、訂正されたところで、ことの真相には、何を加えるものではあるまい。 ──その年、忠盛へ
嫁
(
か
)
して、忠盛の邸で、祗園女御が産み落とした男の子が、真実 ── たれの子なのか? ── という究極の謎には、何のかぎともならないからだ。
帰するところ、その祗園女御の腹から出たことだけは確かな ── 子の清盛が、いま、
躍起
(
やっき
)
になって、知ろうとしている肝心な焦点は、どう木工助を責めても、彼の口から解かれ出るすべもなく、彼もまた、主家の血液の秘密に対し、それ以上な
憶測
(
おくそく
)
を加えることは出来なかった。その問題の
秘裡
(
ひり
)
に立ち入って、それを謎と考えてみるだけでも、郎党たる身にとっては、主家への反逆のように思えて、空恐ろしいことだったにちがいない。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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